6月14日(土)
本日の「M / PM問題討議」、実は村井さんと益子さんの話を聞きつつ、脇で言いたいことを言っちゃおう、と実にご都合主義的なことを企んでいた。しかし、直前になって、少しは準備しなくちゃと昔の本など引っ張り出したら、なんと98年に上梓した『JAZZ百番勝負』(講談社ソフィアブックス)でバッチリ一章を割き、ポストモダン状況におけるジャズについて、アルバムまで挙げて書いているじゃいないですか。
それで知らんふりはいささか無責任。というわけで討議冒頭そのことにふれる。今回は5月17日に行なったシンポジウムを音で検証するのがテーマ。ところが早くも私と村井さんで、ジャズにおけるポストモダン状況の始まりの時期について意見が食い違う。村井さんは67年の切断面を重視し、私は80年説を主張。
もっとも私とて、村井さんの言う67年のギャップは認めるが、それは50年代末やら40年代半ばの飛躍と同質のものではないかという立場。つまり、どの不連続面においても、ジャズマンは、ジャズ自体については積極的に疑いの意思を表明していないというのが私の理解。だが、80年の切断面では、明らかにジャズマン自身が“ジャズというカテゴリー”自体に無頓着ではいられなくなっているように見受けられる。もっとも、この話も見方次第という面があり、私の見解を絶対というつもりはない。
そこが議論の引き金となって、最初の思惑のように大量の音を例示するようにはならなかった。このあたりは反省点でもあるが、話の成り行き上いたし方ないとも思える。面白かったのは、前回一番話題となった清水靖晃『JAZZ・Live』がそれほど違和感を抱かせなかったことだ。耳は進化し、変化するということだろうか。
興味深かったのは、パーカー、パウエルといった“ビ・バップの天才たち”からマイルスへといたる“モダンジャズの変容”という“大きな物語”の筋道について、大枠で益子さんと見解が一致したことだ。もちろんこうしたことは多数決ではないので、単にそういうことがあったというにとどめたい。
しかし、一番嬉しかったのは、参加者の方々のご意見が非常に有意義であったことだ。A.K.さんの、68年の文化の変化と、80年代のそれとの相違の理由として、「第三者の審級」(大澤真幸著『虚構時代の果て』ちくま新書P227参照のこと)の有無を挙げたことや、東浩紀氏言うところの、「萌えポイント」「データベース」という観点から現代ジャズを理解しようと言う発想は、実に面白い。
また、最近いーぐるの常連になってくれた宮坂氏の、ブラック・コミュニティとマルサリスの関係の理解はとても正確だし、いっきさんの、復帰後のマイルスのありようがマルサリスの保守化を誘ったのでは、というご意見など、同時代を知っている私にとっても目からウロコだった。
当然打ち上げの宴会も大いに盛り上がり、Kirkさんのエイフェックス・ツインオウテカ論など、ジャズファンだけではとうてい現在の状況を把握しきれないと痛感させられた。今後はこうした皆様方と頻繁に意見交流していこうとおもう。皆様方ヨロシク!