think.28

子供の頃、「♪ 出た出た月が、まあるいまあるいまん丸い、ボンのような月が」の「ボン」の意味がわからなかった。その頃私の家のお盆は長方形だったのである。

人は何かと何かが似ていたり、それほどでもないことを、直感的に把握している。だから、その時頭の中で何が起こっているのか意識しない。しかしコンピューターにこの作業をやらせようとすると、いろいろメンドウなことが起こるそうだ。

本をナナメ読みした知識なので心もとないが、何でもキカイに二つの物の類似を判断させようとすると、人間なら瞬時に分かってしまうようなことでも、ひとつひとつ、いろいろな条件に当てはまるかどうかを、枚挙的に計算させなければならないそうだ。

人がお月様とお盆の類似を判断する時、無意識の領域には「カタチにおいて」という第3項が存在する。だから長方形のお盆しか見たことがなかった私は意味がわからなかったのだ。一般化すれば「AとBが似ているのは、Cにおいてである」ということにでもなろうか。Cが暗黙の第3項である。

そして第3項は原理的に数限りなく存在する。「色において」「味において」「使用法において」「名称において」「人間との関わりにおいて」などなど。

しかし人間は、お盆とお月様の「味」が似ているかどうかというような無意味な比較は最初からしない。二つのものを比較する時、暗黙の領域で有用な比較項を、単数、あるいは複数たて、それらを瞬時に勘案し、似てるとか似てないとか、幼稚園児でもそれなりの判断をする。

今はやらないのかも知れないが、私の世代が幼児期にやらされた知能テストでは、たとえば「みかん、りんご、なし、チョコレート」のうち、一つだけ違うものを挙げなさいといったテストをやらされたが、子供でも果物とお菓子というカテゴリーの違いを「みかん、りんご、なし」が似たものであるという判断の元に行ない「チョコレートが仲間はずれ」なんぞと叫んでいたものだ。

もっとも、この問題もわざと混乱させようと思えば「カメレオン、羊、人間、机」といったワケのわからない設問だってありうるだろう。この場合はさまざま回答が考えられる。生きものとそうでないものなら「机」だし、役に立つものとそうでないものなら「カメレオン」、足の数なら「人間」だろうし、カラダに毛が生えているものなら「羊」となる。このことは第3項の意味の重要性を予感させる。

それはそうと、キカイはバカだから全部やる。それはそうだろうAとBに何が代入されるのか事前にはわからないのだから。Aにビール、Bに発泡酒を代入すれば、C = 味においてという項は絶対に外せない。

だから、およそ思いつく限りの第3項を大量にコンピューターにブチ込んで計算させると、面白いことに、たいていのものは同じ程度に似ていることになってしまうそうだ。おそらく、有用な項の計算値と、無意味な項の計算値が相互に打ち消しあい、全体として薄まった無意味な結果になるということなんだろう。これを「フレーム問題」というそうだ。

人間は、生活体験の中でこの第3項の有効性の有無を判断することが出来るが、生活体験のないコンピューターにはそれが出来ない。やらせようとすれば、人間の生活体験をあらかじめプログラムするという、膨大な作業が必要になるのだろう。

人間も似たようなことを頭の中でやっているのだろうが、最初から無意味な第3項は立てないから、それなりにまっとうな計算値というか判断が下されるわけだ。この場合有用なのは、【似ているかどうかより、むしろ第3項の有効性の判断なのだ。】

一般の生活空間の中で起こる出来事では、この第3項は比較的簡単に判断できる。しかし、高度に文化的問題となると、事はそう簡単ではなくなる。たとえば二つの絵画の影響関係を、類似という観点から判断しようとすれば、「構図において」「色彩において」「タッチにおいて」などと言ったさまざまな第3項を立て、類似を判断し、また、それぞれの第3項同士の重要度の程度によって、係数、すなわちバイアスを掛けるというような複雑極まりない作業を行わねばならないだろう。

そして、その結果は、専門家と素人では異なってくるのではなかろうか。素人目には似ているように見えても、まったく影響関係のないものや、どこが似ているのか良くわからなくても、たとえば背景の塗り方のような、極めて目に付きにくいところが決定的意味を持っているというようなことだって、あるのかもしれない。要するに、素人には、第3項を見つけること自体が難しく、また、その第3項同士の重要度の判断も極めて難しいからだ。

この問題は、ジャズマンの影響関係や、複数の演奏の類似を考える上でも、まったく同じように作用する。誤った第3項を立てれば、その項においていかに類似していようとも、影響関係を考える上においてはまったく無意味というようなこともありえるだろうし、一見わかりにくいところが決定的意味を持っていることだって、十分考えられるのである。

結論は、【いかにして、有効な第3項を見出すか】が重要なのであり、【類似の判断自体は、2次的】な問題なのである。つまり、一見単純な「類似」の問題も、その対象が属する文化の価値、意味を事前に十分把握していなければ、まったく見当外れな結論に導かれてしまうのである。