think01 -- ジャズを聴くことについての原理的考察 第1回

ジャズ喫茶という仕事を40年近く続けてきた。その経験を元に、ジャズを聴くということ、そしてジャズから感動を受けるということを少し厳密に考えてみようと思う。もちろん、こんなことはジャズを聴く上で特に役に立つわけではない。しかし、ジャズに対する誤解を防ぐことはできる。また、「ジャズをわかっている」といわれる人は、ここで述べるようなことを、言語化できずとも既に身体で会得している。
ジャズ演奏から感動を受けたことを意識的に自覚した最初の体験は、チャーリー・パーカーの音楽を理解できた時だった。おそらく25歳ぐらいだったと思う。ジャズ喫茶を始めて5年が過ぎていた。このときの体験がこの考察の原点になっている。
なぜかといえば、それが単なる感動の体験ではなく、今まで意味不明の対象が不連続に感動の源泉となったからである。仮に初対面のものから感銘を受けたとしたら、音楽的感動とはそういうものであるとして、特に自覚的にはならなかったと思う。実際にそういうことはあって、10代の頃ラジオから流れる「ハード・デイズ・ナイト」に腰を抜かさんばかりのショックを受けたが、その体験自体をとりたてて不思議とは思わなかった。(「ビートルズ」の出現は圧倒的だったけれども。)
おそらく読者は、この「パーカーが理解できた」という言い方に最初の違和感を持つことだろう。数学的原理や、学術上の見解は理解もできようが、音楽は感じるものではないか。そしてこの疑問は最初に述べた「ジャズをわかっている人」という言い方に対する抵抗感とも同質のはずだ。ジャズは「わかる」ものではなく「感じるもの」「楽しむもの」であるから。
ここには単なる言葉の使い方の問題と、より本質的な部分がある。少し遠回りに見えるかもしれないが、この疑問を解くには「感じるということ」すなわち「感覚」ということを、今一度正確に理解する必要がある。実際20代の私もそこから考察を始めた。感覚は万人共通か。感覚は変化するのか。そして感覚とは何か。
当時の素朴な実感として、仮に感覚が万人共通なら、すべての人がパーカーに感動するはずなのにそういう兆候はない。また、一人の人間の感覚が常に同じなら、今まで単なる騒音としか聴こえなかったものが、急に意味のある音楽として聴こえるというのもいぶかしい。そもそも感覚とは何なのか。
慣れない「心理学概論」などという本を購入し、なるほどと思った。僕らが日常的に、それこそ「感覚的に」使っている、「感じる」だとか「感覚」という言葉の本当の意味は結構厳密であったのだ。そして音楽から感動を受け取ることの謎も、この学術的用語における「感覚なるもの」を正確に理解することが極めて有効な出発点となるであろうことが予測された。