think02 -- ジャズを聴くことについての原理的考察 第2回

まずもって僕らが使う日常会話を思い起こしてみよう。「あいつはいい感覚している」「彼女のセンスは抜群だ」、などというとき僕らは何を意味しているのか。それはたとえば、友人の音楽の好みがカッコ良いとか、TVに出てくるモデル上がりの女優さんの服装がしゃれているといった文脈で使われる。
そこのところを掘り下げてみると、僕らはそのとき友達の聴覚や、女優の視覚の話をしているわけではないという共通理解がある。良い感覚というのは、良い趣味とほぼ同じ意味で受け取られているのだ。そこでは聴覚や視覚よりも、それらの感覚器を通して受け取ったものに対する判断、好悪が問題にされている。(要するに、われわれの日常会話では、「感覚」が「感受性」とほぼ同義語となっている)
ところで心理学で言うところの「感覚」は、そういった価値判断は含んでいない。感覚とは感覚器で受容され、人間の場合それは「視覚」「聴覚」「触覚」「嗅覚」「味覚」の五つしかないという記述は、どこかしら僕らの常識を裏切るものだ。「裏切る」が言い過ぎとしたら、物足らない。
しかし、このあまりにもそっけない記述が実は曲者なのだ。そこからありとあらゆる疑問がたち起こる。視覚は万人共通なのか、聴覚は変化するのか、人によって食べ物の好みに違いがあるのは、その判断の元になっている味覚がそもそも違うからではないか(ここではいわゆる「知覚障害」のことはいったん脇に置く)。とはいえ、一般に関西の味付けが薄味で、関東が濃い醤油を使ってるところを見ると、地域による違い、それはとりもなおさず地域による味覚の同一傾向が存在するのではなかろうか。
これら一見ジャズとは何のかかわりもないように思えることが、実はもろもろのジャズについての(不毛な)議論の根底に横たわっている。そこのところを説明してみよう。ジャズ・バーのカウンターでAさんとBさんが、1枚のジャズ・アルバムの評価をめぐってやり合っているとする。Aさんはたいしたことないと言い、Bさんはけっこう傑作と言い張っている。
隣で話を聞いていた僕は思わず聞き耳を立てる。すると話はおかしな方向へとよじれてゆく。どうやらAさんは、問題のアルバムのA面しか聴いていないようなのだ。それに比べ、少しばかりジャズ・マニアとして年季の入っていると思しいBさんは、あまり人の聴かないB面に聴き所があると力説している。まあ、CD時代ではありえないけれど、昔はこういうことがけっこうあった。
これでは話にならない。そもそも議論の対象にずれがある。とはいえその理由は明白だ。二人の知識(情報量と言い換えても良い)にちがいがあるのだから。
さて、ここからである。この場合は「聴いている対象」言い換えれば「感覚の対象」に違いがあった。つまり心理学用語で言うところの〈感覚〉の問題ではないわけだ。だが、二人が同じアルバムの、しかも同一のトラックについて話し合っているときにも、同じようなことが起こっていないとどうして断言できるのだろうか。

以後、「時間とともに生起し、五感によって捉えられる外界の知覚情報」を、日常会話の用法と区別する意味で〈感覚〉と表記する。ただし、日常使われるこの語の用法が心理学における厳密な定義を含むことを妨げない。「時間とともに生起し」というのは、昨日見た映画が良かったというようなことは、過去の「想起」であって、〈感覚〉ではないという意味である。

われわれは無意識のうちに、人間の知識には違いがあるかもしれないが、〈感覚〉は同じはずだという前提でものを考えている。私の聴いている「ナイト・アンド・デイ」が、人によっては「ゲット・アウト・オブ・タウン」に聴こえているとしたら、これは怖い。ジャズ・バーでのAさんBさんの議論も、BさんがB面を問題にしていることをAさんが知った時点で、不承不承Aさんは矛先をゆるめるだろう。だが、二人とも同じ曲目に的を絞った話になっていたとしたら、そう簡単にはAさんも引っ込むまい。
われわれは日常生活の積み重ねのうちに、他人との意見の違いはままあれど、人々が意見を作り出す、その元となる物の見え方聴こえ方にさして違いはなかろうという前提で生きている。他方、この場合で言えば、仮に二人が同じ場所でジャズを聴きつつ議論をしていると想定すれば、スピーカーから流れる音響そのものは客観的なものであるはずだという認識がある。
整理すれば、われわれは青信号でみなが交差点をわたるというような生活の中で、人々との〈感覚〉の共有を実感し、また学校教育によって、たとえば空気の疎密波によって起こされる音響現象という物理的な客観世界の成立を理解している。主観と客観の両方から万人の感覚の同一性を確信していると言い換えても良い(青信号進めなのは社会のルールだが、その手前に色の認知という共通感覚が利用されている)。
ところで、このような生活実感が、実はあまり正確なものではないとしたらどうだろう。確かに客観世界は成立しているとしても、それに対するわれわれの〈感覚〉なるものが、それら外部世界と正確に対応しているわけではないとしたらどうなるのか。前世紀初頭、心理学界を騒がせた「ゲシュタルト理論」は、われわれの外界認知はTVの撮影機や録音機材のように「客観的に」対象を把握するのではないということを論証した。
この事実は、客観世界と知覚が「一対一対応」するという、それまでの心理学の常識を覆したのである。「一対一対応」というのは、客観世界の「一対象」が知覚における「一現象」と対応するという意味である。パソコン上の「A」というキーを叩けば画面に「A」が表示され、パソコン内部にもしかるべき情報が書き込まれる。このとき、操作する人間、パソコン画面、パソコン内部の記憶作用はすべて正確に「対応」している。
ところが人間(おそらく他の動物も)の知覚作用は、このような客観世界の一つの「出来事」と、その結果と思われる脳内の一つの「作用」が、必ずしも正確に対応してはいないというのである。