1月24日(土)

実を言うと、50年代のスター、マリリン・モンロー団塊オヤジの私にとっても少しばかり上の世代に属し、似たような存在だったブリジット・バルドーのように、同時代に映画を体験しているわけではない。つまり、イメージが先行しているのだ。今回の三具さんによる映像資料中心のマリリン特集、私なりのイメージとのズレが検証でき、実に興味深かった。
歌は、思ったよりヘタだった。しかし、この感想には注釈が必要だろう。まず、10代の頃の私には、歌の巧拙など良くわからなかった。それに映像の魔力が加わる。まさに「アタマに血が登って」いる青少年にとって、このバイアスは大きい。
それを裏返せば、還暦を迎え、さまざまな煩悩と言おうか、妄想と言おうか、世の中を肯定的に見るパワーの源泉が枯れつつあるワタシには、映像の中のマリリンちゃんは、チャーミングでありつつも、その存在自体が「50年代アメリカ」の陰画のように見えてしまうのだ。
あえておバカで庇護を必要とするか弱き存在のように振舞うこと。これは庇護者としてのマッチョな男性像をターゲットとしたしたたかな計算で、つまりはまだ本当にパワーがあった50年代アメリカの“共同幻想”の対象なのである。
それに引き換え、たとえば007シリーズの女悪役のように、ボンドと互角に戦う“女戦士”や、フランス映画タクシー・シリーズに登場した、ハイキックで男どもをノックアウトしてしまう、女刑事の強さはどうだ。時代は変わったのだ。
ところで、のらくら者のワタシには、身体の線が透けて見えるようなドレスを身に纏い、これ見よがしに胸を揺さぶるマリリンちゃんは、トゥー・マッチなのである。単にジジイになっただけ、という影の声を否定はしない。