2月27日(土)
本日の柴俊一さん(NTT出版編集者)によるいーぐる連続講演「実験音楽とジャズ」は、私がthinkで提唱していた「ジャズ的価値」を支える「ジャズファン共同体の共同主観性」の存在を予想させる、実に興味深い結果に終わった。「ジャズ的価値を支えるジャズファン共同体の共同主観性」を私は便宜的に「ジャズ耳」と呼んでいるのだが、まさに今回の講演は、それが決して仮想なものではないことを実証しているように思えたのである。
ところで「ジャズ耳」とは何か? その私なりの定義を今回の講演に即してわかりやすく説明すると、「ジャズファンが、“ジャズ以外のジャンルの音楽”を聴いたときに示す、一定の傾向」というものである。もちろんこれは私なりの「ジャズ耳」の定義の一面に過ぎないが、ジャズファンがジャズを聴いているときより、それ以外の音楽ジャンルを聴いたときの方が「ジャズファン気質」をより鮮明に表す傾向があるようなのだ。
具体的に説明すると、今回の柴さんの講演のあと、参加者の皆さんのうち、明らかにジャズファンであることがわかっている、多田さん、伊藤さんのお二方に、「どの曲が一番気に入ったか」と質問したところ、気持ち悪いくらいその傾向が似ているのだ。お二方が一番気に入ったのはMEV (Musica Electronica Viva)《Spacecraft》で、これはごく大雑把に言ってしまえば、今で言うノイズ・ミュージック。そして2番目はPOLWECHSELで、これはトロンボーン、ギター、チェロ、ベースを、とうていその楽器から出された音とは思えない不思議な「サウンド」として発する前衛グループ。どちらも4ビートであるとかソロイストが華麗なソロをとるといった、ふつうの意味で「ジャズ的」な演奏からは程遠い。
ところで、この1着2着は私の好みの順位とまったく同じなのである。競馬の予想ではないけれど、連勝単式で3人が一致は確率から言ってもとうてい偶然とは思えない。付け加えれば、店のスタッフであるH君(上智ジャズ研出身でミュージシャンの卵)もまたMEVを1番としたのである。
これがジャズの好みの順位なら、ある程度耳の肥えたファン同士の「やっぱりマイルスだよね」的な一致は別に不思議でもなんでもない。しかし「実験音楽とジャズ」というテーマだけに、明らかにジャズといえるものはオーネットの『フリー・ジャズ』(Atlantic)ぐらいで、あとはムーンドッグの実にユニークな音楽やら、ナンカロウのちょっと調子の狂ったようなピアノロール演奏、そしてこの手の音楽ではお馴染みのラモンテ・ヤング、テリー・ライリーなど実に多彩で、他の方はさておき、私などはそれらを音楽のクオリティのレベルでどうこう言うことなどとうてい出来はしなかった。つまりは好みの判断でしかないということである。
何が言いたいのかというと、思いのほか多彩な「実験音楽」だけに、ふつうに考えればそれらにあまり親しみの無いジャズファンの好みも、適当にそれこそ「個人の好み」に従ってバラけそうなものなのに、むしろ「ジャズファンであるがゆえに、各人の嗜好が一致」しているようなのである。つまり、ジャズファンになりやすい方々の体質というか好みの傾向は、マイルスが好きだとかコルトレーンファンだといった、「ジャズ内部」におけるさまざまな嗜好とは別の次元で、「音楽一般に対して接する態度」にある種の共通性が見て取れるようなのである(私が「ジャズファン共同体」の存在を提起した根拠もここにある)。
また、それを補強するような一件として、多田さん、伊藤さん、H君らが挙げた「一番つまらなかった」音楽がケージの《ピアノとオーケストラのためのコンサート》で、実を言うと私もまたこの演奏をどう聴いてよいのかまったく手がかりが掴めず、面白いとかつまらないとか言う以前に、途方にくれていたのである。
どこがわからなかったかというと、最初この演奏はてっきり譜面に書かれていると思い込んで聴いていたが、どうもそうでもないような気もして、では、どこまで書いてあってどの部分が即興なのかと思って聴いてみても、これまた判然としない。あとで柴さんに尋ねてみると、「図形譜面」というものを使用していて、かなり演奏者に解釈の幅がある「即興」であるという。
なぜそこにこだわったのかというと、なんというか、激しく音程が跳躍するピアノの部分など、意表を突くといえば意表を突くのだけど、何度か繰り返されるとそれ自体がパターン化されているように聴こえだし、いったいケージさんはこれで何を表現したいのかがよくわからなくなってきたのである。つまり、ふつうの意味で旋律やら和声やら全体の構成の美で聴かせる音楽でないことはすぐに知れたけれど、では「音自体」の面白さを提示しているのかと思って聴いてみても、どうもそういった「狙い」があるようにも思えない。
というか、いくら「意表を突くタイミングで意表を突く音程の跳躍」を試みても「ピアノの音」には拭い去れないクラシック音楽の歴史が培ってしまった「コノテーション=随伴的意味」が付きまとい、その部分で「自由になれていない」ように聴こえるのである。
この件についてはH君が面白いことを言っていた。「何かしらコントロールされているように聴こえるのです」というのだ。もちろんこの場合の「コントロール」は良い意味ではなく、「自由さに欠ける」という意味である。その意見には私も同感なのだが、そもそもケージの即興の狙いが自由さを獲得するところに無ければ批判も空回りなので、柴さんに「ケージが即興演奏で表現したいものはなんなのですか」と尋ねてみたら、暫定的かつ個人的見解と断った上で、「彼は究極のところ“思想家”であって、例の《4分33秒》で典型的に示されているように、何かを表現するというよりも、音楽についての考え方を示しているのではないか」というご意見であった。
おそらくそうなのだろう。少なくともケージがジャズの即興を批判した理由は、彼の音楽に対する考えが「ジャズ的価値観」とは別の次元にあることは良くわかった。ともあれ、柴さんという、ジャズファンとは少し異なったスタンスで音楽を聴いている方が示してくれた実に興味深い講演は、その「ジャズファン共同体」からの距離ゆえに、かえって私たちが普段意識しなかったジャズファン固有の身体に染み付いた体質、すなわち「ジャズ耳」の存在に気付くきっかけを作ってくれたようなのである。これはぜひ、連続的にこうした機会を作っていただかなければなるまい。