3月6日(土)

八田真行さんによるアル・ヘイグ特集、ジャズ評論におけるスタンスの違いと、世代間コミュニケーションの難しさを表面化させる、実に興味深い展開となった。きっかけは、コアな年配ジャズファンなら知らぬ人はいない、マシュマロ・レーベル・プロデューサー、上不さんの、八田さんに対する批判から始まった。これが音楽の内容、解説に関する反論だけなら別に珍しくは無いのだが、ミュージシャン個人の人柄、行跡に関わる食い違いという、おもわぬ方向から議論が始まったのである。
八田さんが講演の中で、アル・ヘイグの1960年代の活動中断期は、「ジャンキー」であったためではなかろうかと発言した部分に対し、上不さんが、「ミュージシャンは好き好んで違法薬物に手を出しているのではなく、やむにやまれぬ事情があってやっている。そうした彼らに対し、無関係な人間が『ジャンキー』などと言うのは、彼らにとってみれば決して嬉しいことではないはず」と、それなりにわからないでもない批判をした。
それに対し八田さんは、「アル・ヘイグが薬物中毒者であったことは関係者の著作物、証言等で確認しており、無根拠な話ではない。ただ、活動中断がそのためであったのかどうかは憶測である。また、『ジャンキー』という用語が適切でなかったかもしれないが、悪意を持って言ったわけではない。」と、これまたしごく納得のいく返答をしたのだ。
これを聞いていた私は、なるほどなあと思った。つまり上不さんは、ご自身でも言っておられたが、プロデューサーという仕事柄、常にミュージシャンと接しているので、どうしてもミュージシャン寄りの発想になってしまうし、どちらかというと音楽よりもミュージシャンの人柄に興味があるようだ。一方、聴き手の立場である八田さんは、演奏そのものに関心があって、ミュージシャンの行跡については参考資料以上の意味付けはしていないのではなかろうか。だからジャンキー云々もミュージシャンの経歴を素描しただけで、ヘイグに対する悪意などあろうはずが無い。
これは評論で言えば、作家の人間性や内面、経歴に焦点を当てる「作家派」と、作品自体を評論の対象とする「作品派」の違いのように思える。私はどちらのスタンスもあってよいと思うが、お互いの立場の違いを理解せずに相手を批判しても、無意味のように思える。つまり音楽自体を論じている人に、作家派が演奏者の人柄を擁護する立場から批判をしても、作品派の人は、そういうことを問題としているわけではないと困惑するしかないのではなかろうか。
ちなみに私自身は明らかに「作品派」で、大好きなチャーリー・パーカーも、「演奏あってのパーカー」と思っている。もっとも、パーカーの場合は人間そのものが面白すぎるので彼にまつわる著作はけっこう読むが、それとて「とんでもない演奏をする人間の行跡」だからこその面白さで、「アルトを吹けないパーカー」はただのジャンキーの疫病神でしかない。
もう一つの行き違いは、八田さんがアル・ヘイグバド・パウエルを比較する話の中で、パウエルの演奏を「ヤバイ演奏」と形容したことに対し、大のパウエル・ファンである上不さんが、「ヤバイ」の意味を昔ながらの否定と受け取って非難したのである。これは、八田さんも負けず劣らずパウエル・ファンであることを知っている私が直ちに中に入り、「いまどきの若い人は良い意味でこの言葉を使うこともあるのです」と説明し事なきを得たが、これなどは世代間コミュニケーション・ギャップが現れた典型例だろう。
もう一つ、これは明らかに音楽に関わる食い違いだが、八田さんが「パーカーはサイドマンを選ぶ際、誰でも良いと思っているように思える」と発言したのに対し、上不さんが強い調子で「そんなことは無いだろう、パウエルだって、ヘイグだって素晴らしいミュージシャンじゃないか」と反論された。この件に関しては、私も八田さんと同意見だったので、ちょっと差し出がましいとは思ったが自説を開陳した。
ハードバップ期以降のマイルスのように、自分の音楽観に添ったサイドマンが必要だったなら、当然「誰でも良い」などということはありえないだろうが、まだ始まったばかりの実験前衛音楽ビバップは、「付いて来られれば誰でも良かった」というような事情はあるのじゃなかろうか。また、極度に個人技に重点が置かれているパーカーの音楽は、極論すれば彼のソロがすべてで、少々サイドマンに問題があっても、ハードバップ時代のマイルスの音楽のように、そのことが決定的な弱点にはならない。とは言え、高度なパーカー・ミュージックに付いてこられるのは「結果として」優れたミュージシャンとなるのは当然で、だからパウエルがおり、ヘイグがいたのだ、と言うのが私の推論で、それが絶対正しいと主張するつもりもないけれど、ありえない話ではないのでは、と思っている。
八田さんの論拠はもう少し具体的で、ギャラの問題など私のように推論だけではなかったが、結論である「パーカー、サイドマン無頓着説」は私の見立てと同じである。
なにか「論争」がらみの講演だったように思われてしまいそうだが、決してそんなことは無く、正直あまり事実関係を知らなかったアル・ヘイグの経歴について八田さんは実に要領を得た解説をしてくれたし、もちろん、音楽的にも実りの多い講演であった。
たとえば、通説であるヘイグ・パウエル派説に対し、彼はより古い時代のピアニストからの影響も受けていると指摘し、それが流麗なラインとしてトミー・フラナガンなどにも影響を与えているという話などは、確かにうなずける。また、八田さんが愛聴しているのは70年代以降の演奏という点も、私とまったく同じだった。思うに、厳密な意味でのスタイルこそ違え、共に「心の闇」を抱えたパウエルやヘイグの音楽には、「健康人」では表現できない怪しい魅力があるということなのではないだろうか。
また、「心の闇」ではないかもしれないけれど、どう考えても「怪物」でしかないパーカーの音楽は、それこそゼッタイに「健常人」では表現できないのではなかろうか。そうした視点からすれば、所詮小市民である私たちにとって、それが「物語」であることを承知の上で「ジャンキー・ジャズマン」は「健康でまっとうな世間」に対する裏返しの英雄なのであって、常識世界からの非難の意味合いなど、少なくともジャズファンにあろうはずが無い。
などと考えてみると、「作品派」を気取っている私にしても、大なり小なり「ジャズマン神話」を受け入れたいと思う深層心理があるのだろう。それにしても解せないのは、「ジャンキー」などより明らかに問題行為である「女房殺し」の嫌疑をアル・ヘイグがかけられていたと言う八田さんの解説に対し、ヘイグの人柄に肩入れしているはずの上不さんは、どうして抗議しなかったのだろう。不思議である。