think.35 番外編 攝津さんへのご返事・1 【ジャズ美学成立の困難について】

「いーぐる掲示板」に攝津さんが書き込まれた質問に対するご返事です。議論が多岐にわたっているので一つずつご返事していくこととします。最初に申し上げておけば、これは「質問に対する回答」といった、大上段に構えたものではなく、「とりあえずの私の考え」ぐらいに受け取っていただけたら幸いです。今回は「2月26日20時45分」に書き込まれた内容(「無題」なので、便利のためこちらで「ジャズ美学成立の困難について」というタイトルを付けさせていただきました)についての私の考えです。

攝津さんがおっしゃる、ジャズ美学成立の困難さの理由として、「アーカイヴの成立が困難だから」というご指摘、そのとおりだと思います。また、舞踏が同様の「困難さ」を抱えているという部分もまったく同感です。はるか昔の話ですが、例の「暗黒舞踏」なるものを初めて見たとき、舞踏もジャズと同様に「その場に居合わせなければ実感できないこと」が表現の本質的な部分にまで及んでいると深く感じたものです。まさに「間身体的な共感の場」を共有しなければわからない。

また、「再現性、反復可能性」という点で、CD、楽譜などでは不十分だという攝津さんのご意見、私も同感です。特に天才と言われた表現者チャーリー・パーカーバド・パウエルの即興を分析し客観化することの本質的困難さについて、一部の方々はあまりにも楽観的に考えておられるように思います。同じように、美術館のキュレーターの言う「セロニアス・モンクの構造分析」の可能性についても、私も攝津さんと同様きわめて懐疑的です。

私がパーカー、パウエル、モンクといったジャズの根幹に立つ人々の音楽の分析が難しいと考える理由は二つほどあります。まず、モンクの音楽に限らないのですが、音楽を分析しその構造を見出そうという発想は、暗黙のうちに、美的表現、あるいは人に感動を与える表現は、一定の客観的な構造、あるいは先験的な意味を持っているはずだという先入見があるのではないでしょうか。しかしこれはきわめて疑わしい。

というか、人文分野における構造や意味は、事後的かつ恣意的に見出されるものではないかという疑いが抜けきれないのです。これは小説の影響もあって、イタリアの記号学者、ウンベルト・エーコの『フーコーの振り子』(文藝春秋社刊)後半の、推理小説もビックリの大どんでん返しに思わず「ウーン」と唸らされてしまったことがけっこう大きい。

小説の内容をきわめて大雑把に説明してしまえば、さまざまな知識が集積し知見相互の関係性が複雑になればなるほど、人はそこに何らかの(たとえば陰謀のような)統一した意思を見出したがる傾向があるというお話なのですが…より単純化すれば、“妄想”も知的であればあるほど人は信じるというきわめて皮肉なストーリーです。

また、最近読んだ懐疑論者、野矢茂樹の著書『語りえぬものを語る』(講談社)も、違う角度から人間の思考の根源的限界について語っています。「懐疑論者」というと何か斜に構えた皮肉屋のイメージが強かったのですが、この本を読んでそれほど単純なものじゃないんだなと思うと同時に、多くの部分で共感を覚えました。要するに、「人は見たいものを見てしまう」のですね。おそらく、そのほうが(全体としては)人類にとって生存に有利だったのでしょう。たとえ多くの「カン違い」があったとしても,,,

付け加えれば、この本は私が以前から考え続けており、com-post「往復書簡」でスタックしてしまった知覚と言語の関係について、実に鮮明な見通しを与えてくれました。いずれじっくりと内容について触れたいと思っています。

話を元に戻すと、まず原初の体験としてパーカーなりパウエルなり、あるいはモンクの演奏への驚きがあり、その驚きの理由、源泉を探りたいという、きわめてまっとうな欲望が人々をさまざまな分析、研究へと駆り立てるのでしょうが、彼らイノヴェーターと言われたジャズマンの「やったこと」には、ジャズの伝統から大きな養分を受け取ったとは言え、おそらく「秘密の原理」や「特段の構造」といったものは存在せず、ただ単に「優れた演奏が行われた」というみもふたもない「事実」しかないのではないでしょうか。

むしろ「美」や「感動」という概念こそがそうした体験から生まれるわけで、先験的な美の理念形などというものは極めて存在が疑わしい。ちょっと文学的な言い方をすれば、“美は無根拠”なのではないでしょうか。

とは言え、人間の心理としてそれでは満足できないのも当然で、頭のいい方々がそれなりの「分析」を施せば「美の原理」めいたものが出てきちゃうというところがまた面白いと思うのです。しかしそれらは「事後的」に、かつ「恣意的」に、「見出された」ものでしかなく、何らかの「先験的原理」が存在すると考えるのは、言うところの「主知主義的倒錯」のバリエーションなのではないでしょうか。

あまりうまくご説明できているとも思えませんが、いずれこの話は攝津さんの他のご質問、たとえば「ピタゴラス主義に関する問題」のときにでも、もう少し詳しくご説明できればと思います。

ということで二つ目の「理由」に移ります。これはジャズという音楽に特に強く出ている特徴だと思うのですが、演奏のニュアンスとか表情といわれている部分こそが聴き所だという特殊事情です。人間の話にたとえれば、話の内容より「語り口」とか「口調」そして、「声の質感」といった部分が重要になっている。まさにここがポイントで、話の内容というか速記に当たる楽譜では、非常に記録することが難しい複雑かつ微細な部分がジャズ的表現の生命線なのです。

もちろんそれは旋律だけではなく、リズムも同様です。ある程度までは譜割りの表現は出来ても、微細な休止符や不均等に分割されたビートなど、いわゆる「ニュアンス」という言い方で表現される部分など、とうてい記譜することは不可能なのではないでしょうか。そこに音色の問題が重なります。楽譜では同じ音程でも、ゲッツとコルトレーンではずいぶんテナーの音色が違う。そしてその違いにこそジャズファンは意味を見出している。

付け加えれば、同じ旋律でもリズム、音色の微妙な違いで音楽の表情はまったく違ってしまいます。このようにざっと概観しただけでも、ジャズは特別記号化が難しい種類の音楽だと思うわけです。そして、ジャズよりは譜面による記号化が容易と思われているクラシックでさえも、演奏者による表現の違いはことのほか大きく、やはりここでも音楽の表情であるとかニュアンスといった、定量化しにくい部分が演奏の質を決定しているように思える。

結論すれば、文学や美術作品に比べ、音楽一般が持つ原理的な「言及の難しさ」というものがあるように思います。このあたりが、たとえばメルロ=ポンティセザンヌ論はじめ美術には大きなページを割いても、音楽についてはきわめて限定的な発言しかしていない理由なのではないでしょうか。

とりあえず今回はここまでといたします。残りの部部分については今しばらくお時間をください。また、他の読者の便宜のため、以下に攝津さんの書き込み内容を再掲させていただきます。



(無題)投稿者:攝津正 投稿日:2012年 2月26日(日)20時45分24秒
今考えているのは、ジャズの美学の成立の困難、ということです。簡単にいえばアーカイヴの成立が困難だから、ジャズ美学も困難、ということです。エリック・ドルフィーの『ラスト・デイト』のおしまいに、ドルフィーの肉声(英語)で、音楽というものは演奏されてしまえば空中で消えてしまうんだ、というような意味のことが語られていたでしょう。そういうことです。もちろんCDがあります。しかし、当然ながらすべてが記録されるわけではありません。チャーリー・パーカーにせよ、我々が彼のライヴの一端を窺い知ることができるのは、ほとんど偏執狂的なファン、マニアがいて、パーカーの行くところ全てに録音マイクを持ってついていったからです。その成果が『パーフェクト・コンプリート・コレクション』です。そのようなものがなければ、我々は、サヴォイ、ダイアル、ヴァーヴの公式録音でしかパーカーを知り得なかったわけです。仮にそうであっても、パーカーは偉大であるということに変わりはないでしょうが、パーカーのイメージは相当違ったものになっていたでしょう。少し角度を変えていいますと、Facebookで最初に後藤さんとフーコーの一件を書いたとき、大学の先輩で今は文学や思想ではなく現代ダンスの研究をされている方が反応してくれました。彼の話では、ダンスではまさにアーカイヴが成り立たないので、研究が難しいということでした。私は無知で知らなかったのですが、ダンスにも「譜」があるそうです。しかし、それは非常に特殊なもので、まず一般の人には読めないし、その「譜」だけを手掛かりに論じるのも難しいそうです。ダンスをヴィデオなどに録画する場合もあるでしょうが、それも二次的であるそうです。そうしますと、ダンスの研究といっても限りなく「批評」のようなものだ、ということになってしまいます。つまり、或るダンスの公演について彼が何か書いたり分析したりするとします。しかし、その内容が妥当なのかどうか、その公演を観に行かなかった人には永久に分からないということです。アーカイヴがないということは、再現性、反復可能性、客観性、検証/反証可能性がないということです。そのような場合、美学や芸術学を構築するのは困難であろうと思います。フーコーの知の考古学ならば、フランスの図書館とか古文書館に所蔵されているような歴史的な古文書資料の総体がアーカイヴでしょう。ヴォリンガーやヴェルフリンにとっても、「モノ」としての、つまりしっかりとした物質性がある対象としての美術作品の総体がアーカイヴでしょう。同じようなことがダンスやジャズにはいえるのか、ということです。私の先輩の意見では、ジャズならまだ、楽譜なり採譜があるし、CDもあるからまだましではないか、とのことでした。それはそうかもしれません。ただ、パーカーならパーカー、パウエルならパウエルの即興をどう客観化し分析できるだろうか、と考えてみると、容易ではないようにも思います。ちなみに私個人は、楽譜は読めますが、書く力はないです。採譜はできません(どこかで訓練すれば、できるようになるかもしれませんが)。「耳コピ」なら少しはできます。セロニアス・モンクの「ブルー・モンク」「ナッティ」「ベムシャ・スウィング」を耳コピしました。しかし、それらは全て単純な構造をしています。ちょっと脇道に逸れますが、私が耳コピした「ナッティ」「ベムシャ・スウィング」はCだったのですが、どうもモンク自身はBフラットで演奏しているようです。どうしてそういうことになったのか、ずれが生じたのか分かりません。もう死んでいますが、私の実父は大阪のバンドマンで、サックス奏者でした(ちなみに、全く有名ではありません。少しも歴史に名前が残っていません。それは実父とともにバンドをやっていた母親も同じですが)。彼がモンクが19歳で作曲した「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」を採譜しており、私はそれをたまに演奏します。モンクの曲は、70曲以上あるそうですが、それを全部調べたわけではないですが、コード進行の複雑さという点ではこの19歳での作曲が一、二を争うのではないでしょうか。研究というようなたいそれたものではありませんが、自分が調べた限りでいえば、「アスク・ミー・ナウ」が複雑だと感じました。美術館のキュレーターが、モンクの構造主義的分析ができないかと言い、私が困難だと考えた、と今朝書きました。つまり、モンクを繰り返し暗記するほど聴けば、モンクに特徴的な(即ち彼が好むような)フレージングや和音が分かります。モンクは、特に若い頃(プレスティッジの『セロニアス・モンク・トリオ』に顕著です)、通常不協和音として嫌われるような短2度や減5度を執拗に繰り返して使っています。そのようなことなら理解できるし、音源の参照を求めることで他者にも伝達可能でしょう。再現可能性や反復可能性などがあるということです。しかし、それに楽理的な、或いは数学的な(これは無理だと思いますが)解析を加えて、「構造主義的な分析」をすることなど果たして可能なのでしょうか。私自身は懐疑的ですが、後藤さんであれ、ほかのかたの考えもうかがえればと思います。 http://www.geocities.jp/tadashi_settsu/