think.31

哲学に対する私見を述べておく。その前にひと言断っておきたいのは、世間の哲学に対する偏見である。それは、あまりにも哲学を後生大事なものと崇め奉る心理の裏返しがもたらす、無意味な反発だ。これは芸術に対する態度と同じで、芸術、哲学を語る人間を、そのことだけで無根拠に尊敬してみたり、また、同じ心理の裏返しで「かっこうつけちゃって」と反発してみる姿勢である。どちらもくだらない。

私に言わせれば、芸術愛好家と例えばアイドルファン、アニメオタクではどちらが上かというような比較は、無意味だと思う。それぞれの価値観が異なるのだから。同じように、哲学を論じることと、例えばファッションを語ることもまた、どちらが高級といった話をしてもしかたないだろう。単にそれぞれの関心領域が異なっているに過ぎない。

それを前提にして言うならば、私の哲学に対する関心は二つに分かれるようだ。一つは単純に知的好奇心。例えば、ハイデガーの『存在と時間』は、未完とは言え、よく出来た推理小説を読むような面白さがある(犯人は「存在」)。また、ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』には、人を酔わせるような断言のカッコ良さ(「世界は論理的空間における事実の総和である」「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」など)がある。まあ、彼は後に「あれは間違いだった」と振り返ることになるのだが・・・

こうしたものを好むことは、単にちょっとばかり込み入っていて結局犯人はわからずじまいな推理小説(結果、いつまでも興味が持続する、という見方も出来る)を楽しむことや、よく出来た詩(何しろ「世界」を裁断しちゃうんだから)読んで感動することと大して変わらない。それに反感を感じるのは、暗に反発する人間自体が哲学に対するイメージを過大に膨らましすぎているからに過ぎない。

もう一方は、道具としての哲学である。何かを考える時、厳密に思考しようとすれば、それは哲学的にならざるを得ない。というのも、哲学は論理操作の妥当性や、人々がものごとを考える際の「暗黙の諸前提」自体を検証するからである。つまり、目の前に考えなくてはいけない難問があった場合、哲学の成果を利用するのは、科学者が数学を利用するのと同じなのだ。

微分積分のような数学上の知識を、一から自分で考え出すのはたいへんだが、私たちはそれらを学校で習い利用できる立場にいる。同じように、それぞれの問題圏において、少なくとも私などよりは何十倍も頭の良い哲学者たちが、一生を賭けて思考した成果を利用しない手はない。

で、私にとっての難問とは、いろいろあるのだけど、この「ジャズブログ」のテーマにふさわしい当面の課題に限れば、「主知主義批判」と「感覚と観念の相互作用」である。

まず「主知主義批判」。もっとも私自身「主知主義」ということばを知ったのは、モーリス・メルロ=ポンティの主著『知覚の現象学1・2』(みすず書房刊)を読んだからである。そして自分自身が疑いようもないと信じていた思考過程自体が、いわゆる「主知主義的倒錯」に陥っている例をいくつも見出した。まあ、自分中心にものごとを考えてはいけないのだろうが、一般に「理屈っぽく」(というか理性的に)ものを考えようとすると、どうしても主知主義的傾向を帯びがちなのではなかろうか。

そして、主知主義的思考法の落とし穴として、ジャズのような感覚芸術がもたらすさまざまな効果(感動しちゃったり、興奮したり・・・)を、音響現象がもたらす知覚自体に見ようとせず、その背後の音楽理論に求めようとする、アマチュア・ミュージシャンが陥りがちな錯覚がある。いわゆる主知主義的倒錯の典型だ。

自然科学におけるさまざまな現象の背後に一定の理論を想定するのは合理的だが、音楽のような人間の感受性という不確定なものが介在する現象の効果の背後に、理論の存在を見ようとする傾向は、気持ちはわかるけれど、どうしたって「後付けの理屈(帰納)」にしかなりようがない。そして帰納したものから演繹しても、元のものより優れたものが生まれるわけがないのだ。

具体例を挙げれば、チャーリー・パーカーの演奏がもたらす感動を、その背後の音楽理論に求めようとする姿勢である。確かにパーカーの確立させたバップ理論は効用性が高く、それこそ多くの「モダン・ミュージシャン」が誕生したのだが、その理論からはパーカーを凌ぐような存在は出てこなかった。帰納・演繹の限界は、すでにジャズ史においてわかりやすい形で証明されている。マイルスはその罠には嵌らなかった。

主知主義批判については、初回なのでざっくりとした話しかしなかったが、今後より具体的に展開したいと思う。たまたまだが「いーぐる普遍論争」を通じ、攝津さんという哲学の専門家で、しかもジャズ・ミュージシャンというかっこうの対話相手が登場してくれたので、虫のいい話だが、哲学的記述の不備は攝津さんはじめ、MosesHessさんら有識者に適宜修正していただけたらと考えている。

これは私の持論なのだが、知的な成果は本来匿名的なもので、2+2はだれが発見しようが4という解は同じであり、いわば人類共通の財産なのだと思う。つまり、このブログの当面の目的である、より妥当なジャズ(音楽一般も含む)の批評言語を構築する作業は、目的に賛同する有志の共同作業で進められるべきではなかろうか。

より本音を言えば、本来なら私のような哲学のアマチュアではなく、より専門的知識を持った方が論述すべきテーマだとは思うのだが、現実問題として、そういう方で幅広くジャズを聴きこんだ方はいらっしゃらないようなので、やむを得ず力不足を自認しつつも、私ごときがこうした大問題に取り組まざるを得ない。だから、対話を通じた論述の修正は不可欠なのである。なお、もう一つの課題「感覚と観念の相互作用」については、次回以降に譲りたい。                           2010/11/19