think.32
主知主義批判の続きの前に、またちょっと哲学私見を追記しておく。think.31で、私の哲学に対する姿勢は哲学自体に対する知的好奇心と、道具としての哲学の二つに分かれると書いたが、当然その各々で哲学に対するスタンスは異なる。
前者では、例えばメルロ=ポンティが何を言っているのか? と彼の思考の道筋を探るようにして著作を読むが、後者では、むしろ探るべき中心は道具を使うべき対象(この場合はジャズあるいは音楽一般)なので、目下の問題解決の役に立つ発想なら、あたかもペンチを金槌の代わりとして使うようなやり方も辞さない。つまり、thinkにおける哲学は、基本的に音楽評論について考えるための道具なのである。
とは言え、哲学の力は、言い換えれば知の力は、厳密な思考過程自体が力の源泉なのだから、その辺り(精密さと臨機応変な姿勢)に対するバランス感覚は保ちたいと願っている。まあ、こうした思考法自体がある種の矛盾を内包することは自覚しているが、一歩でも前へ進むことが出来れば良しとしたい。
ところで、一般の読者は、ジャズを聴くことと主知主義とやらがいったいどういう関係があるのかいぶかしく思っていることと思う。しかし、ジャズという音楽が、何らかの素人にはわからない深遠な原理に基づいているからだと想像し、その原理を理解しなければジャズが楽しめないのではないか、と考えている方は思いのほか多いのではないだろうか。
現に私は、朝日カルチャーセンターの生徒さん(この方たちはいわゆるジャズ入門者が多い)から、こうした主旨の質問を何度となくされている。私の主知主義批判は単なる机上の空論ではなく、聴き手の現場からの切実なフィードバックなのである。こうした発想は、私の知る限り、ジャズ入門者にも、そしてある程度ジャズを聴いて来たベテランファンにも見ることができる。
このような態度もまた、主知主義的倒錯である。ジャズの楽しさ凄さは背後の原理や深層にあるわけでなく、音自体の表層に端的に現れている。この件については、近刊『ジャズ耳の鍛え方』で対処法も含め詳しく触れているが、ジャズを楽しむには音自体を注意深く聴くことが一番重要なのである。そういう意味で言えば、『ジャズ耳の鍛え方』はジャズ聴取の現場における主知主義の弊害をわかりやすく噛み砕いて解説し、「ジャズを楽しめる身体」をシステマチックに作りあげる本とも言えるだろう。
一昔前、蓮実重彦氏が「表層批評」という言い方で、映画はスクリーンに写った画面の表層をしっかりと見ることに尽きると語っていたが、まさにこの姿勢はジャズの聴取にもそのまま当てはまる。映画の背後に政治的イデオロギーを見たりする60年代の批評にうんざりした蓮見氏が、ショット自体の輝きを見ろと言ったことは、ジャズの背後に政治性や音楽理論を見るタイプの評論が見逃しがちな、音自体の豊かな表情に注意しろという私の主張と同型だと私は考えている。
そもそも音楽のような感覚芸術における理論なるものは、当初は感性の秩序を記述したものに過ぎなかったはずだ。しかるべき音の配列、しかるべき音程、しかるべきリズム、しかるべき音色といったもろもろの音響要素は、言うまでも無く感覚によって規定される。とは言え、当初は単なる現象の記述に過ぎなかったものが歴史の中で規範と化す例はいくらでもあるが、まさに音楽理論の体系がそれなのだ。
このことはクラシック音楽はもちろん、世界の諸民族音楽、そして現在のポピュラー音楽においても当てはまる。付け加えれば、ノイズやパンク、そして前衛音楽一般といった「規範からの逸脱」は、規範が存在しなければ達成のしようが無いという意味で、やはり規範、すなわち特定の時代の、特定のコミュニティの、感性の秩序に規定されている。
また、規範はクラシックにおける五線紙に代表されるさまざまな楽譜によって記録され伝達されるが、楽譜が存在しない音楽もまた口承によって伝達される。そして伝達における価値の保存、伝承には言語が介在する。簡単に言えば、当初、感覚の体系であったものが言語を媒介として観念の体系となるということだ。つまり時間と共に生起し、移ろいやすく、伝承、伝達が難しい感覚作用の成果である音楽、演奏、歌唱を、一度理念化することによってその価値の保存、維持、伝承、伝達を可能にしているのだ。
(この項、未完 2010/11/22)