think. 33 【カニエ・ウェストを巡る、原雅明さんとの酒席での“雑談”】
前回think. 32を書いたのが2010年11月22日、しかも「この項、未完」となっている。完全に1年以上ほったらかしだ。まあ、同年12月にNTT出版から上梓した『ジャズ耳の鍛え方』が、「その続き」あるいは、「とりあえずの私の考え」を表明しているというのが、当時(1年前)の漠然とした気分だったのだろう。
もちろん一般向きの図書だからややこしい話は抜きにしてあるので、think32以来の懸案である「主知主義批判」の根源的解答などになりえていないのはやむを得ない(と言うか、そうした本質的問題に確固たる答を出す能力など、今の私は持ち合わせていない。ただ考え続けるのみだ)。
また、たまたまではあるけれど、今年は中山康樹さん主導によるヒップホップの連続講演や、“音楽夜噺”主宰、関口義人さんと共同でイヴェント『ジャズとワールド・ミュージックの微妙な関係』を開催するなど、『ジャズ耳』自体を相対化するような他ジャンル音楽との交流があり、“理論より実践”“考えるより体験”の1年であったということもある。
そして、ほぼ同じ時期com-post における益子さん、相澤さん、宮坂さんらとの往復書簡『ジャズにおける身体感覚の変容と認識の切断面 再考』も中断されたままだが、これも来年あたりから相澤さんを新しいお相手として再会しようかというような話も、先日の忘年会で交わされた。
まさにその忘年会でたまたま原雅明さんと雑談中に、thinkの私の問題意識とも、そしてそれを敷衍することが本来の目的だったcom-post往復書簡とも通底する話題が出たのである。
それを良いことに、なし崩し的にthinkを再開し、どういう道筋を辿るかわからないけれど、今私が考えていることをご紹介してみようと思う。まあ、気軽に読め、またこちらも気楽に書き続けられるよう、難解な書籍の引用などは必要最小限にとどめ、あくまで読み手のみなさまがたの「考えるヒント、きっかけ」になればという心つもりで始めようと思う。
キーワードは『ジャズ耳』ならぬ『黒耳』『白耳』。きっかけは今年1年続いたヒップホップを巡る議論である。まず初めにお断りしておきたいのは、何しろワインをしたたか飲みつつの楽しい雑談だったので、あくまで私が受け取った範囲での理解であり、これから書くことが原さんの発言、考え方を正確に再現しているとは思わないでいただきたい。私の思い込みや聞き間違いが混ざり込んでいる可能性は否定できない。
とは言え、当夜の原さんの発言から「眼からウロコ」的にいろいろな問題のヒント、回答が得られたのは事実なので、まさに私にとっては「生産的会話」の見本のような実にありがたい体験であった(要は、功は原さんに帰し、責は私が負うということだ)。
どちらが言い出したのか定かではないが、原さんもゲスト参加された中山康樹さんの近著『ジャズ・ヒップホップ・マイルス』(NTT出版)発売記念イヴェントのエンディングに、マッドリブが出てくるのが腑に落ちないというようなところから話が始まったのだと思う。まあ、伏線として、その日のイヴェントで原さんが紹介してくれたカニエ・ウェストを私が大いに気に入り、原さんご紹介アルバムも含め3枚ほど入手し、日々開店前に大音量で楽しんだり、忘年会の夜もBGMにカニエをかけまくったという状況がある。
後から知った話だが、カニエ・ウェストという人はこの世界ではかなり有名だという(まあ、ジャズ喫茶のオヤジがいかに“いまどき”の音楽状況に疎いかを現していますね)。確かに華があり、それまで私などが漠然とヒップホップに抱いていた「なんか、みんな同じに聴こえちゃう」というネガティヴなイメージを一掃する“音楽的”かつ変化に富んだトラックが並んでいる。それは、中山さんがジャズとヒップホップの共通項としてあげた「黒人の反抗精神」ばかりが強調される“単純な”ラップではなく、むしろ白人ポップスにも通じる“お洒落な”感覚が粋で心地よい。
確か、出版記念イヴェントの際原さんは「場違いかもしれないけれど」とか、「こんなのかけちゃ後藤さんに怒られるかも」などと言いつつ紹介し、しかし私は初めて聴くカニエを大いに気に入り、口には出さねど、「なんで中山さんはこんな魅力的な人物を紹介しないんだろう」と若干いぶかしく思ったものだった。
しかし、その時は、おそらく当日のイヴェントの主要テーマ、“マイルス繋がり”とは関係が無いので言及しなかったんだろう、そしてそれを承知だから原さんは「関係のなさ」を強調したのだと思い込んでいた。
ところがどうも違うらしい。原さんはイヴェントの際、どうやら確信犯的にカニエをかけたようなのだということが、忘年会の席での話の端々に見えてきたのである。原さんに言わせれば、もしマイルスが生きていてヒップホップをやるとしたら、絶対マッドリブみたいな(ビンボー臭い!)音楽をやるわけが無く、むしろ華麗でゴージャスなカニエ的なものになるに違いないというのである。そしてそういう自分の気持ちを言外に表明するために、当日カニエをかけたというのだ。
まさに「眼からウロコ」(1枚目のウロコ)である。その時まで、私は中山さんの著書に対して漠然と抱いていた“違和感”は、単に私のヒップホップに対する無知、不慣れに由来すると思い込んでいた。つまり、中山さんがまさに今の音楽と(あるいは現代のジャズとまで)強調するマッドリブをあまり好きになれないのは、単に私がヒップホップという音楽ジャンルに慣れていないための“偏見”と思っていたのである。
また、カニエを好きというものまったく私の個人的な好みの問題で、ジャズとヒップホップの関わりという中山さんが提起した問題とは無関係と考えていた。ところがどうも違うらいしいのだ。前述したように、カニエはこの世界ではビッグネームであり、肯定的に扱うにしろ否定的に見るにしろ、彼に言及しないヒップホップシーンというものはありえないらしい。
また、原さん周辺の若い音楽ファンから、(アタマの固いと思われている)ジャズ喫茶オヤジが、(予想に反して)カニエを好きとブログで表明したことが好意的に受け取られていると言う。そしてその裏返しなのかもしれないけれど、ヒップホップ周辺の一部の方々から中山さんの著作について不満の声があるとも言う。
と、ここまでお読みになった方々は、あたかも酒の勢いで私と原さんが中山批判を中山さんのいないところでやったように受け取られるかもしれない。しかし違うのである。そんな低次元な話ならわざわざthinkに書くほどのことも無い。
2011/12/27 記、次回予告【中山擁護と、“黒い耳”“白い耳”の話】