いーぐる連続公演 第529回 5月17日(土曜日)
●「チャカポコ」の逆襲〜ラテン・ジャズとは何か?
岡本郁生
★「ラテン・ジャズ」とはもともと「インストゥルメンタル・マンボ」である。
Mambo Inn / Mario Bauza ‘Afro-Cuban Jazz’
Caraven / Duke Ellington (1937年)
Tanga / Machito
Okiedoke / Machito And His Orchestra Featuring Charlie Parker
Afro-Cuban Jazz Suite:Part?.Mambo〜Part?.Mambo(Continued)〜Part?.6/8〜Part?.Jazz〜Part?.Rumba Abierto / Machito/Chico O'Farrill ‘Afro-Cuban Jazz Suite’
Manteca / The Chico O´Farril Orchestra ‘More Than Mambo’
Cuban Fantasy / Tito Puente ‘Cuban Carnival’
Morning / Latin Percussion Jazz Ensemble ‘Live at the Montreux Jazz Festival 1980’
Nefertitti / Jerry Gonzalez ‘Ya Yo Me Cure’
★ジャズマンによるラテン
Un Poco Loco / Bud Powell
A Night In Tunisia / Art Blakey
Milestones / Miles Davis
※A Love Supreme / John Coltrane
手書き譜面に「Piano / Trap drums / 2 Bass / 2 Conga /1 Timbal」というメモあり
★ラテン→ジャズ/ラテンから見たジャズ/ラティーノによるジャズ
Afro Blue / Chembo Corniel
Along Came Betty / Jerry Gonzalez
Jibaro / Miguel Zenon
Cuban Fantasy / David Sanchez
Challenge Within / Antonio Sanchez
Afrotangojazz / Natalie Fernandes
Don't Explain / Buika
Empatía / Gerry Weil, Pablo Gil, Nené Quintero
De Repente / BAK Trio (Rafael Brito, Diego Alvarez, Roberto Koch)
<資料>
●ジャズ・ファンは、ラテンくさいジャズを敬遠しがちである。「日本人はラテン・リズムが好きなんだ」と口ではいいながら、ラテン音楽はジャズではなくポピュラー音楽のひとつだぐらいに考えている。これがそもそも間違い。(中略)マーシャル・スターンズ亡きあと最も信頼するに足るジャズ学者アーネスト・ボーネマンは「ジャズはニューオリンズで誕生したラテン・アメリカ音楽の一種である」とまでいっているのである。
「ジャズの歴史物語」(油井正一 P.317)
●米国の太鼓禁止令・・・18世紀後半→→→コンゴ・スクエア
●“You walk with rhythm, you talk with rhythm, you eat your food with rhythm…Rhythm is everything.” Maria Bauza
「歩くときもリズム、しゃべるときもリズム、食べるときもリズム…リズムがすべてだ。 マリオ・バウサ」
(‘Latin Jazz–The Perfect Combination/La Combinacion Perfecta’ Raul Fernandez)
●ディジー・ガレスピー 衝撃の告白!
「当然、キューバ音楽の複雑なリズムについていくことは、ジャズマンにとってしばしば困難だった。ガレスピーはこう語っている。
『キューバ人が米国に、3/8拍子、6/8拍子、3/4拍子、2/4拍子を持ち込んだ。その音楽を演奏するのはわれわれには困難だった。それまで4/4拍子しか演奏していなかった。2/4拍子もよくわからなかった。ワルツが3/4拍子ってことはわかってたけどね。キューバ音楽が難しいのはリズムをキープするバスドラムがないからだ。彼らは足を踏むこともしなかった。演奏している最中でもどこなのかわからなくなるんだ』」
(『My Time Is Now』Mario Bauzaのライナーノーツより)
→ディジー・ガレスピーが理解できないぐらいなので普通のジャズマンは尚更。いわんや日本のジャズ・ファンをや…
●マリオ・バウサ 経歴
1911年 キューバ・ハバナ生まれ。子供の頃からクラシックのクラリネットを学ぶ。
26年 ダンソンで有名なアントニオ・マリン・ロメウのオーケストラで録音のために初めてニューヨークに滞在。そのとき体験したジャズに大きな衝撃を受け30年代のはじめにはニューヨークに移住。トランペットとサックスに持ちかえ、アントニオ・マチン、ドン・アスピアスなどラテン・バンドで働いたあと、スウィング・ジャズの名門チック・ウエッブ楽団の音楽監に就任。デビューまもないエラ・フィッツジェラルドと知り合う。
39年 キャブ・キャロウェイのバンドの音楽監督に就任。 若き日のディジー・ガレスピーが在籍。
40年キャロウェイ楽団を退団。幼なじみの歌手マチートとともにアフロ・キューバンズを結成。マチート(フランク・グリージョ)はハバナで12年に生まれ、マリオに呼ばれて38年にニューヨークに移住。当初はザビア・クガート楽団などで歌っていた。マチートの妹のエステラはマリオの奥さん。ふたりは義理の兄弟にあたる。
41年 「ソパ・デ・ピチョン」でデッカからレコード・デビュー。
43年 代表曲となる「タンガ」ヒット。同年マチートのもうひとりの妹で、キューバではアナカオーナという女性だけのバンドで活躍していたグラシエラが、歌手として参加。
●エディ・パルミエリの証言
――あなたが活動を始めた50年代末のニューヨークのラテン音楽シーンは?
エディ・パルミエリ(EP) パレイディアムでは、日曜日の客は大多数がブラックだった。水曜日はユダヤ人が多くて、金曜日はラテン系が多かった。ギャンブラーがいて、みんないい服を着ていた。土曜日はもっと典型的なラテン系の工場労働者とかが多く、そういう人たちはコルティーホが好きだった、58〜60年ぐらいのパレイディアムの土曜日はそんな人たちでいっぱいだった。そして日曜日は80〜90%がブラック。踊るのが好きで、うまかった。ラテン音楽を踊るのもね。
――ラテン音楽がブラック・ミュージックに影響を与え、逆にブラック・ミュージックがラテン音楽に影響を与えた、と・・・。
EP コンビネーションだよ。隣りはバードランドだから、ジャズ・ミュージシャンがパレイディアムに聞きにきていた。そしてラテンのミュージシャンたちもバードランドに聞きに行っていた。ベイシー、エリントン、スタン・ケントンなんかをね。それぞれが互いに影響されていた。
――それで、あなたもよくジャズをやっていたんですね?
EP あれは、ラテン・ジャズのひとつの形だ。が、当時は、ラテン・ジャズではなく、インストゥルメンタル・マンボと呼んでいた。つまりダンサブルなジャズということだ。プエンテは素晴らしいアレンジでインストゥルメンタル・マンボを演奏していた。ティト・ロドリゲスもそう。もちろんマチートも。ラテン・ジャズという言葉はあとからできたんだ。
(『米国ラテン音楽ディスク・ガイド50’s-80’s LATIN DANCE MANIA』リットーミュージック)
※「Birdland」・・・1678 Broadway, just north of West 52nd Street
「Palladium Ballroom」・・・at the corner of 53rd Street and Broadway