冒頭、スティーリー・ダンの《DO IT AGAIN》が「いーぐる」店内に流れると同時に、記憶は30年前にタイム・スリップ、「ディスク・チャート」の思い出が蘇る。今回、田中さんのお骨折りで実現した、いーぐる連続講演特別企画「DISK CHART AGAIN♪」は、当時のレコード係りである長門芳郎さんに、「ディスク・チャート」の選曲を再現してもらうと同時に、もし今「ディスク・チャート」が存在したのならどんな選曲をするであろうか、という非常に興味深いイヴェントだ。
 ところで「ディスク・チャート」とは何であるのかを、ジャズファンの皆さんに説明する必要があるだろう。「ディスク・チャート」は私がかつて経営していたロック喫茶で、場所は現在の「いーぐる」そのものである。1972年の秋に開店、翌年の初夏を迎える前に閉店し、そのまま現「いーぐる」に衣替えしてしまった「幻のロック喫茶」は、次のようないきさつで出来上がった。
 当時、新宿通りは現在の半分の道幅で、なんと都電が走っていた。木造2階建ての半地下部分、現在の半分以下のスペースだった「旧いーぐる」は、その都電通りに面した現在の「いーぐる」より30メートルほど四谷駅よりのところにあったのだが、道路拡幅で移転することになった。そして既に拡幅されていた現在の「いーぐる」の場所に「ディスク・チャート」を作ったのだが、その時点では、まだ拡幅されていない部分に建っていた「旧いーぐる」も、ジャズ喫茶として同時並行的に存在していた。
 その当時の私の考えは、ロック喫茶とジャズ喫茶を同時にやるつもりだったのだが、ロック喫茶が思いのほか経営不振のため、やむを得ず「ディスク・チャート」を「いーぐる」に転用してしまったという次第だ。
 長門さんを「いーぐる連続講演」にお招きしたのは2回目で、前回は「ジャズ喫茶」という場を考慮した若干ジャズ寄りの選曲であったが、今回は「ディスク・チャートの再現」という明確なテーマのため、いろいろと興味深いことが判明した。
 まず、当時の「ディスク・チャート」の選曲傾向だ。そんなことはお前が経営者なのだから知っていて当然だろうというツッコミが入りそうだが、それは「当然」ではなかった。その頃の私は、ジャズはそこそこ知っていても、ロックは素人同然であった。そして、知らないことは知っている人間に任せた方が良いという、私流の判断があった。だから店に顔を出していても、具体的な「選曲傾向」まではわからなかったのだ。これはジャズの素人には、ハードバップがすべて同じに聴こえてしまうことを思い出せば、ご理解いただけよう。
 そしてその「選曲傾向」だが、二つの側面があると思った。一つは、非常に洗練された趣味のよいものだが、それは72年当時の平均的ロックファンの「好み」を、必ずしも反映してはいないだろうということ。そしてもう一つは、だからこそ、彼らの選曲に共感した山下達郎さんや大貫妙子さんが「ディスク・チャート」で出会いもし、そして「シュガー・ベイブ」の結成にも繋がったのであろうということだ。
 この日のイヴェントには、長門さんとともに「ディスク・チャート」を支えてくれた小宮さんが来てくれ、二人でいろいろと当時の思い出を語ってくれた。その結果、記憶の闇に閉ざされていたさまざまなことが明らかになった。
 まず、今まで私は「ディスク・チャート」は1971年の秋に出来たと思い込んでいたのだが、事実は翌72年の秋だったということ。なぜ71年なのかというと、私はこの年の夏から秋にかけ、伝説の後楽園球場「グランド・ファンク・レイルロード」初来日公演、箱根アフロディテにおける「ピンク・フロイド」の初来日公演、そして、エルトン・ジョンの初来日公演を友人たちと観ており、当然「ディスク・チャート」もその年に開店したと思っていた。
 しかし事実は、中学校時代からの友人である日野原君(後にTVプロデューサーとしてさまざまな賞を取る)たちとやっていたTV、ファッション・ショーの仕事の流れの中で、ロック・コンサートへ盛んに出かけるようになったのだった。もっとも、そのことと「ディスク・チャート」設立は無関係ではなく、彼らとやったロック喫茶取材が大きなきっかけになったのは間違いない。(新宿厚生年金ホール向かいにあった「ソウル・イート」で、若き日の渋谷陽一氏のインタビューをやったことなどが思い出される)
 そもそも、あまり詳しくも無いロックにかかわりを持つようになったのは日野原君の影響で、それこそ中学時代からロックに関する知識情報は日野原経由で得ていた。それが70年代になって一気にエネルギーを増したかのように見えたロック・ムーヴメントの勢いもあって、日野原にプロデュースしてもらう形での「ディスク・チャート」開店への動機となったのである。
 そうしたこともあって、開店当初のアルバム・セレクトはもちろん、選曲も日野原に一任していた。だから私の頭の中では、日野原のセンスと、彼に選曲を任されていた長門さん、小宮さんたちの発想がごっちゃになっていた。
 ところが今回小宮さんに尋ねたところ、日野原の好みと彼らの好みはけっこう違っていたという。日野原はイギリス系のキンクス、フリーなどがメインなのに対し、彼らはアメリカの、それもイースト・コーストのサウンドが気に入っているという。もちろん両者の共通項もたくさんあって、だからこそ日野原は長門さんたちを信頼したのだろうが、これは新しい発見だった。
 また、両者の接着剤の役割を果たしてくれたのが作曲家の矢野誠氏で、長門さん、小宮さんは矢野さん経由で日野原と知り合ったという。(日野原のアルバム『螺旋時間』は、矢野氏のプロデュース)
 ともあれ、経営的にはうまく行かなかったけれど、「ディスク・チャート」の存在が日本のロック・シーンに何がしかの足跡を残したことを今回、長門さん、小宮さんの口から教えられ、あれはやっぱり正解であったのだと意を強くした。もっとも、そんなこととは関わりなく、1971年から73年にかけての出来事は、すべてが楽しく、そして心踊る日々の連続であった。
 長門さん、徹夜の選曲ご苦労様でした! 小宮さん、懐かしかったです。田中さん、有難う。みなさん、また何かやりましょう!