7月10日(土)
益子さんによる新譜特集、今回はわかりやすくていねいな説明のため、かなりいろいろなことが見えてきた。まず、益子さんの講演は「新譜特集」と銘打ってはいるものの、実際はニューヨークのダウンタウンシーンに限定されていることはわかっていたが、それにしてもかなり傾向が偏っているように感じていたのだが、その理由がかなりはっきりしてきたように思う。
つまり、当然のように選者のフィルターはかかっているとは思っていたが、それが想像以上に強いのではないか。要するに、今までニューヨークシーンの傾向と思われていた、抑制的というか内省的というか、ある種の屈折感を感じさせる複雑な音楽の表情は、実は益子さんの好みの反映なのではないかということである。とは言え、それは当然ニューヨーク・ダウンタウンシーンの実態でもあるのだろうが、要するにバイアスの程度の問題である。
そして「現代ジャズ」とは言っても、実際はそのごく一部に過ぎないニューヨーク・ダウンタウンシーンの、その中でもある種の感性のフィルターによってセレクトされたものを、私たちは「わかりにくい」と思い込んでいたフシが無きにしも非ずなのだ。
つまり、どんな時代にも「わかりにくい」ジャズはあったが、たまたまそういった範疇に入れられがちな演奏を益子さんが好きで、それを重点的に紹介したため「今のジャズシーンはわかりにくいなあ」というイメージが必要以上に強調されてしまったフシが無きにしも非ずなのである。言うまでもないが、「わかりにくい」ということは「つまらない」とか「良くない演奏」ということではない。文字通り「理解されにくいタイプの演奏」という意味である。
もちろん、益子さんの好みがまったく現代ジャズシーンの傾向と関係のない個人的なものだとは思えない。シーンが昔のように判りやすくはないということは、益子さんの新譜紹介以前から言われていたことで、これは事実だ。ただ、本来ならもっと多様であってもよいはずの新譜が、どういうわけか益子さんによるセレクションは毎回一定の傾向を感じさせてしまうところに問題の鍵があるように思う。
それは、以前行われていた原田さんと須藤さんのコンビによる新譜紹介と比べれば歴然としている。お二方の紹介するものはそれこそいろいろあって、その頃感じていた「わかりにくさ」は、ジャズシーンをかつてのように「モードの時代」だとか「60年代新主流派」といった単純なカテゴリーでは括れない「もどかしさ」、いうなれば「総括のしにくさ」が「わかりにくさ」の主な内容だったのだ。
しかし益子さんに担当が変わってからは、演奏のクオリティは一定の水準を保つ反面、それらが一定の傾向を帯び、かつ演奏自体が「わかりにくく」なってきたように思う。つまり「わかりにくさ」の内容がいつのまにか変質していたのだ。
この辺りの問題は一度キチンと詰めておかないと、いわゆるジャズの「ポストモダン問題」も適切に議論できないように思った。