2018年10月6日(土曜日)


【『JAZZ 絶対名曲コレクション』創刊記念イヴェントのご報告】


土曜日は多くのお客様にご来会いただき、ほんとうにありがとうございました。この場を借りてあつく御礼申し上げます。また、予想以上のみなさま方に創刊号お買い上げいただいただけでなく、全巻予約までしていただき、ほんとうに嬉しく思っております。とりわけ、「全巻予約」の方は当店の常連さんであり、いつもランチを食べに来てくれるお客様。これは今回のシリーズの「眼に見える有力な顧客層」ということで、大いに励みとなっただけでなく、今後の監修作業の参考ともなりました。

従来、このパート4に及ぶ「JAZZ 100年シリーズ」の読者層は、潜在的なジャズ・ファンというか、入門的な方々であるという先入観があったのですが、今回の新シリーズについては、「ジャズ喫茶の常連さん」というコアなファン層の方々にも、関心を持っていただけたということがわかったのですね。それを裏付けるように、来会者の中には他にも大勢の「ジャズ喫茶常連さん」の顔が見うけられたのです。これはこれまでのシリーズの創刊イヴェントにはない現象でした。

コアなジャズ・ファンの方々にも興味を持っていただけたのは、事前に私が個人ブログで「〜こうしたジャズ・シーンの隆盛を今一つ実感できないのが、従来からのベテラン・ファンという皮肉な現象も一部に垣間見られるようです。それは、この方々が今起きている「ジャズ史の見直し現象」に追従し切れていないことが原因のように思えます。」と、書いたことが影響しているのかな、などと思いました。

また、「いーぐる」の掲示板とツイッターで、「ジャズ評論の先達、野川香文氏の至言『ジャズに名演あって名曲なし』についての監修者後藤雅洋による現代的新解釈、そして『JAZZ絶対名曲』というアイデアはまさに現代ジャズマンの発想であることなど、多岐に渡る内容になります。」と書いたことも、コアなジャズ・ファンのみなさまの関心を引いた要因かもしれません。

というわけで、イヴェントにおいでいただけなかったみなさま方に向け、当日のご報告をさせていただこうと思います。司会は本シリーズの担当編集者、池上信次さんです。



【イヴェント報告】


冒頭、小学館の小林編集長から刊行に至る経緯が紹介されました。要約すると、4年間104巻に至る既刊の売れ行きを分析した結果、やはり読者の関心は「楽曲」にあるという結論に達し、そこから「JAZZ絶対名曲」というコンセプトが生まれた、という内幕話でした。

これはまったく「販売側」の戦略と言っていいのですが、それが奇しくも現代ジャズマンの発想(前回のブログの「グラスパー発言」をご参照ください)と一致していたのです。しかしよく考えてみれば、こうした現象は不思議でも何でもないのですね。膨大な数の「読者層」のアンケート回答、販売実績を基にした分析は、ジャズファン、そしてそれを上回る数の潜在的ジャズファン層の欲求を表しており、先鋭な感覚を備えた現代ジャズマンは、それをきちんと掬い取っているということなのです。ジャズはそれぞれの「時代の音楽」でもあったことを思い起こさせてくれる出来事と言っていいでしょう。

とは言え、こうした「現象」自体に対して、従来からのベテラン・ジャズ・ファンの方々から、ある種の不信感が醸し出されるであろうことは、監修者である私自身よく承知しておりました。その「不信感」を要約すれば、ジャズ評論の先達、野川香文氏の至言「ジャズに名演あって名曲なし」ということになるでしょう。ですから、『JAZZ 絶対名曲コレクション』創刊号では、この野川氏の発言を導入として、その「21世紀的理解」をご紹介していますので、ぜひお手に取ってご一読ください。イヴェントでは、こうした事情についても、野川さんの著作に触れつつ解説いたしました。

『JAZZ 絶対名曲コレクション』の基本コンセプトは、「名曲から名演へ」つまり親しみやすい曲想を導入として、「個性的表現」というジャズならではの聴き所を、ジャズに興味を持ちつつも「敷居の高さ」から二の足を踏んでいるような潜在的ジャズ・ファンの方々へとお伝えしようというところにあります。

私自身、ジャズを聴き始めたころは「演奏の質」、つまり名演かどうかについての評価など出来ませんでした。それも当然で、ジャズ演奏の質は「ジャズ的価値観」を体感していないと難しいのですね。「ジャズ的価値観」とは、前述の「個性的表現」を体感するということです。しかしそれにはある程度ジャズを「聴き込ま」なければ難しい。

それに比べ、「曲想」に対する評価はジャズ初心者でも比較的容易なのです。それについて創刊号で、「高校生の頃、友人が弾く『テイク・ファイヴ』を聴いてジャズに興味を持った」という個人体験を披露しています。それと同時に、バド・パウエル作の「クレオパトラの夢」が、「パウエルが弾いているから名曲だったのだ」という体験も披露し、これがいわゆる「ジャズがわかって来た」ということだったと解説をしています。

しかしこの「パウエル体験」は、野川さんの発言の趣旨をなぞっていたのですね。というわけで氏の著書を一部引用してみましょう。

「ジャズ音楽に名曲というものは無い。けれ共、素晴らしい演奏、名演がされた場合においてだけ、それは名曲だといえる。」『ジャズ楽曲の解説』昭和26年(1951年)刊p,7より引用

お分かりかと思いますが、野川さんの説は私の初心者体験のうち、「パウエル体験」については妥当しますが、「テイク・ファイヴ体験」に対しては若干距離があります。だって、高校生のアマチュア・ピアニストの演奏が「名演だった」ということは考えにくいでしょう。

それが名演であるかどうかの判断が付かずとも、「ああ、いい曲だなあ」ということはジャズファンで無くともわかるという体験的事実を、「野川説」だけではうまく説明できないのです。

つまり私のテイク・ファイヴ体験が示しているのは、「楽曲」についての感想は必ずしもジャズに親しんでいない人間、つまり名演かどうかの判断の付かないジャズ初心者でも出来るということを示唆しているのです。そしてこの体験的実感が、『JAZZ 絶対名曲コレクション』のコンセプトを後押ししているのですね。

こうした現象を包括的に説明するには、次のように考えるべきでしょう。私たちは音楽を聴いたとき、演奏の質はさておき、それをまずはメロディ・ラインとして把握するという事実です。名演であったときはもちろん、そうではなくとも、「テイク・ファイヴ」や「クレオパトラの夢」あるいは「枯葉」といった楽曲を、私たちは「好ましいもの」として体感するという経験則です。

『JAZZ 絶対名曲コレクション』はこうした事実に基づき、「名曲」というわかりやすい理解でジャズに接した方々に、「実はそれは名演なのですよ」ということを実感していただこうという寸法なのです。

そして、ある演奏が名演であることが実感できるようになるということは、ジャズマニアが口にする、即興的要素だとか個性的表現、そして生々しさ、グルーヴ感といった一連の「ジャズならでは」の好ましい特徴を体感できるようになるということなのです。

そしてこうした『JAZZ 絶対名曲コレクション』の「戦略」が、奇しくも現代ジャズマンの発想と一致していることも、イヴェントでは詳しく説明いたしました。その具体例は、意外かもしれませんが本シリーズVol.3『クリスマス・ジャズ』で、カマシ・ワシントンの「フィスト・オブ・フューリー」を実例にあげ詳しく解説していますので、発売されたら(11月13日発売)ご一読いただければ幸いです。

ちなみに、このブルース・リー主演の映画『ドラゴン怒りの鉄拳』の主題曲「フィスト・オブ・フューリー」は、本シリーズVol.14『XXX(新元号)のジャズ』(21世紀の「至上の愛」2019年4月16日発売)でご紹介する予定です。


【当日ご紹介した音源】

1, 「クロース・トゥ・ユー」:カーペンターズ / エラ・フィッツジェラルド
2, 「ノルウェイの森」:ザ・ビートルズ / セルジオ・メンデス&ブラジル’66
3, 「アイ・キャント・ヘルプ・イット」:マイケル・ジャクソン / エスペランサ
4, 「枯葉」:イヴ・モンタン / マイルス・デイヴィス(別テイク)/ ジュリアン・レイジ
5, 「八木節」:民謡歌手 / 山中千尋
6, 「マイ・フェイヴァリット・シングス」:ダイアナ・ロスシュープリームス
7, 「スペイン」:平原綾香