【「ジャズ評論」についての雑感~その4(番外編)】

 

 

ツイッターは観ているだけですが、最近ジャズを巡る面白い騒ぎがありました。柳楽光隆さんに初対面のさる音楽関係者が「ジャズは終わった」と否定的なコメントを発し、柳楽さんがおおいに憤慨しているようです。常識的に考えて、初対面で相手の専門領域のジャンル自体を否定的に捉えること自体、失礼であることがわからないはずがなく、明らかにこれは挑発ですね。

 

こうしたやり取りに対し、友人の音楽評論家、村井康司さんがツイッターで実に適切な評価を下しています。村井さんは

 

「ベテランのジャズ・ファン、それも音楽業界にずっといた方にも、ジャズは死んだとか今のところジャズは駄目だ、と言う人はけっこういますけどね。そういう人はどこかで新しいものを聴かなくなっているだけなんだけど、そういう意見を聞きかじりでリピートしてる感じがします。」

 

とコメントしていますが、まさに同感。要するに、その「音楽関係者」は不勉強なんですよ。もっとも誰だって「専門領域以外」のことは不勉強なんですから、謙虚に柳楽さんに「最近のジャズってどうなんですか?」って質問すれば、適切な会話が続いたんじゃないでしょうか。

 

その上で、「私は最近のジャズに対し『終わった』と思っているんですよ」とでも話しかければ、最新ジャズ状況に詳しい柳楽さんなら適切な実態をその方に説明したんじゃないでしょうか。まさにその方は重要な音楽情報を受け取るチャンスを逸したんですね。

 

まあ、村井さんの適切過ぎる「総括」でこの話は終わりなんですけど、私自身、同業のジャズ喫茶関係者からくだんの「音楽関係者氏」に近いコメントをいただくことが少なくなく、「この問題」はけっこう根深いように思います。というわけで、この件を私なりに掘り下げてみようと思います。

 

そもそも問題の発端は、いみじくも村井さんが指摘している「そういう人はどこかで新しいものを聴かなくなっているだけなんだけど」というところにあるように思うのです。というのも、私自身、ジャズ喫茶という現場にいなかったら「ベテランのジャズ・ファン、それも音楽業界にずっといた方にも、ジャズは死んだとか今のところジャズは駄目だ、と言う人はけっこういますけどね」の一人になっていた可能性はかなり高いからです。

 

私はジャズ喫茶の役割は、「ジャズ」と「ジャズファン」を結ぶ結節点だと考えているので、最新のジャズ情報は柳楽さんなどのアドヴァイスを受けつつ自分の好みとは切り離し、一応目を通しているおかげで、ここ数年のジャズシーンの活況を肌身で感じているわけですが、そうでない「一ファン」は、過去の体験に縛られがちなのもわからないではありません。

 

とは言え柳楽さんを挑発した方は素人ではなく、一応音楽に関わっている方なのですから、これは不勉強の誹りは免れませんが、それはさておき、私が問題にしたいのは何故「過去の体験に縛られるのか?」というところにあるのです。

 

それに対する答えは私なりに出しています。それはベテラン、ジャズファンほど、「ジャズ史」に対する理解が浅薄というか一面的なのですね。彼らは19世紀末に始まり既に100年を超える全ジャズ史の、5分の1にも達しない「モダンジャズ史」を金科玉条のものとして信奉する視野狭窄に陥っているのですね。

 

「耳派」を自称する私ですら、「頭派」と言いますか「ジャズ史的知識」を借りなければ、肝心の「耳」自体が視野狭窄というか聴覚狭窄に陥ってしまう危険は承知しているのです。

 

というところで、その具体的内容は次回に…