【「50年のジャズ・アルバム・ベスト100」が面白い】

 

 

現在発売中の『ミュージック・マガジン』に「50年のジャズ・アルバム・ベスト100」という記事が掲載され、各方面から話題を呼んでいるようです。この企画は、37人の音楽関係者が1969年以降2019年に至る、50年間に限定したジャズ・アルバム・ベスト30枚を選出し、それを編集部が集計しベスト100を選出したものです。そしてその結果について村井康司さんと柳楽光隆さんがたいへん興味深い対談を行っています。

 

選出された「ベスト100」や対談は『ミュージック・マガジン』をご覧いただくとして、たまたま私もその元となるベスト30選出に参加しているので、私のセレクトをご紹介しつつ、選定結果、選定過程に対して感想を述べてみます。なお冒頭の数字は私の順位で、アルバムの後ろの数字は「ベスト100」の順位を表しています。

 

 

後藤雅洋の選んだ1969~2019「ジャズ・ベスト30アルバム」(ミュージック・マガジン選ベスト100順位)

 

1

Miles Davis

Agharta

21

 

2

Ornette Coleman

Dancing in Your Head

1

 

3

Joe Zawinul

My People

94

 

4

Keith Jarrett

Standerds Vol.1

32

 

5

Chick Corea

Piano Improvisation Vol.1

 

 

6

Charles Mingus

Cumbia & Jazz Fusion

73

 

7

Wayne Shorter

Odyssey of Iska

 

 

8

Herbie Hancock

Directstepp

 

 

9

Weather Report

Sweetnighter

67

 

10

Gil Evans

Priestess

 

 

11

Stan Getz

People Time

86

 

12

Roland Kirk

Kirkatron

 

 

13

Pat Metheny

Trvels

 

 

14

Charlie Haden

The Ballad Of The Fallen

 

 

15

Michael Petrucciani

Michael Petrucciani

 

 

16

Paul Motian

Garden of Eden

 

 

17

Kamashi Washington

Heaven and Earth

 

 

18

Kip Hanrahan

Tenderness

 

 

19

Joni Mitchell

Shadows and Light

19

 

20

Steve Coleman

Sine Die

 

 

21

James Blood Ulmer

Are You Glad To Be In America?

6

 

22

Bill Frisell

Blues Dream

 

 

23

Egberto Gismonti

Danca Das Cabecas

 

 

24

Kurt Rosenwinkel

Caipi

 

 

25

John Scofield

Quiet

 

 

26

Henry Threadgill

Too Match Sugar For A Dime

 

 

27

Henri Texier

Mad Nomad

 

 

28

Brad Mehldau

Art of Trio 4

 

 

29

Maria Schneider

Concert in the Garden

 

 

30

Go Go Penguin

Man Made Object

 

 

 

 

結果として私が選んだ30枚のうち9枚、つまりちょうど30%が「ベスト100」に入り、それ以外は選外ということです。「連帯率」30%ですね。この結果はたいへん面白いと思います。というのも、37名の選者の顔ぶれを眺めると、ジャズを専門とする音楽関係者はおよそ30%ほどで、奇しくも私のセレクトの「ベスト100」に対する「連帯率」とほぼ一致しているのです。

 

そのほかの方々はロック、ポップス、ワールドミュージック等、それぞれの音楽ジャンルの専門家なのですね。つまり3分の2ほどは音楽のプロフェッショナルが「外から」ジャズを眺めた結果が反映されていると見ることが出来るでしょう。

 

仮にジャズ関係者のみで同様の試みを行ったとしたら、「連帯率」は少なくとも50%は超えるであろうと想像できることから、この企画を否定的に見る方は少なくないようです。例えば、原雅明さんはツイッターで次のように呟いていました。

 

 

>>「50年のジャズ・アルバム・ベスト100」にも参加してますが、エレクトロニック・ミュージックの時に続いて、微妙な気持ちですね。やっぱり合評でランキング決めるのが無理なんでしょう。個々のランキングとそれぞれのベスト1か特に書きたい作品の選評が載ってるので充分じゃないかと思います。

 

 

この原さんのご意見には私も同感です。つまり、あまりにも多様な価値観で選ばれたものを単純に集計したため、肝心の「ジャズ」という視点がぼやけてしまっているという批判ですね。

 

また、村井・柳楽の対談内容もこの企画を単純に「よいしょ」しているわけではなく。例えば、柳楽さんは冒頭で「中村とうようが降臨している」「日本の音楽ライターのジャズ観が30年間更新されていない」と辛口の皮肉を飛ばし、それに対し村井さんが一生懸命「客観性」を保とうとしているように見え、お二方とも友人なので実に面白く読めました。

 

私はというと、若干の留保付きではありますがこの企画を比較的高く評価しています。その第一の理由は、たまたま『ミュージック・マガジン』創刊時以降という企画意図だったとは思うのですが、選考基準を1969年以降としたところなのですね。

 

ある程度ジャズ史的知識があれば、「それじゃあ、ジャズの黄金時代である『モダン期』が完全に抜けちゃうじゃないか!」という至極当然な批判が予想されますよね。にもかかわらず「評価」するのは、なまじジャズに詳しい方々があまりにも「モダンジャズ史観」に影響され過ぎており、その当然の結果として「現代ジャズ」が理解しがたいものになっているように思えるからです。

 

つまり現代ジャズシーンが明らかに活性化しているにも関わらず「あれはジャズじゃない」という、まさに1960年代風な「切り捨て」傾向がベテラン・ジャズファンの間には根強く残っているのですね。それはこうした方々が無意識のうちに“ジャズ”を“モダンジャズ”を典型として捉えているからじゃないか、というのが私の見立てなのです。この件については、現在【「ジャズ評論」についての雑感】という連載記事で触れているので参照していただければと思います。

 

こうした風潮の中で、「たまたま」とは言え、まさに「モダンジャズ終焉期」である1969年を起点とした今回のアンケート企画は、「全ジャズ史」の重要な「欠落期間」とも思える1969年以降のジャズ史に光を当てるきっかけとなりうる試みだと私は捉えたのです。

 

留保つきと言うのは、原さんのおっしゃるように「個々のランキングとそれぞれのベスト1か特に書きたい作品の選評が載ってるので充分じゃないかと思います。」という意見に同感で、私は個々の選者の方々がどういったセレクトをしているのかたいへん興味があったのですが、何しろ活字が細かすぎとうてい読む気になれないのですね。

 

どなたかボランティアであの37名の方々のアルバム・リスト、読める大きさに打ち直して一般公開してくれませんかね。あれはジャズ史的にたいへん大きな価値がある資料だと私は思います。

 

  • 第666回 9月14日(土)午後3時30分より 参加費1200円+飲食代金

『セレーナは生きている!』

 

1990年代前半、テキサスから飛び出し全ラテン界のスーパースターとなった女性歌手、セレーナ。

グラミー賞も獲得し“第2のグロリア・エステファン”として、満を持して英語マーケットへ飛び込もうとしていた矢先の1995年3月31日、24歳の誕生日を目前に凶弾に倒れました。

日本ではほとんど知られていませんが、亡くなっても毎年ベスト盤が出るほどいまだに絶大な人気を誇るセレーナは、現在も多くの人々の心の中に生き続けています。

改めて、セレーナの短い生涯を振り返りながら、彼女の遺した偉大な功績にスポットを当てたいと思います。

 

解説 岡本郁生・伊藤嘉章

 

 

 

  • 第667回 10月12日(土) 午後3時30分より 参加費800円+飲食代金

 

ジョー・ファレル特集』

 

詳細は後ほど告知

 

                            解説 山中 修

                          

 

  • 第665回 8月17日(土)午後3時30分より 参加費800円+飲食代金

 

『J-POP・フィーチャリング・マイケル・ブレッカー

~ジャズファンが知らないマイケル・ブレッカー名演集

 

テナー・サックスの巨匠、マイケル・ブレッカー(1949~2007)はまたスタジオ・セッションマンの巨匠でもありました。セッション参加アルバムは800枚超、「J-POP」でも20枚ほどに参加していますが、ここでもマイケルは多彩な表現力を発揮し、多くの名演を残しました。

 

J-POPアルバムへの参加は1977年の野口五郎に始まりますが、格段に増えたのは90年代のこと。マイケルはSMAP吉田美和久保田利伸らのアルバムに参加しましたが、そのうちの6枚が『オリコン』3位以内にチャートイン。そのセールスの合計は360万枚を超えています。この数を見れば、マイケルは日本においてはジャズよりもポップスのサックス・プレイヤーとしてのほうが、はるかに広く認識されているともいえるでしょう。言い換えればこれらは「ジャズファンが知らないマイケルの名演集」でもあるのです。

 

ここでは、それらJ-POPアルバムに参加したマイケル・ブレッカーの名演を厳選して聴いていきます。中にはマイケルが主役にしか聴こえないような演奏も。また、多くはマイケル+スーパー・セッションという編成になっており、サウンドの聴き応えも充分(特にSMAPは最強のフュージョン・オールスターズ)。ポップスは時代の反映だけに、そこからはジャズとフュージョンの歴史やJ-POPの流行、サウンドの変遷(歌謡曲~ニューミュージック~J-POP)も見えてきます。

 

 

*プレイリスト(予定)

野口五郎『GORO IN NEW YORK』より/原 久美子『ノー・スモーキング』より/大貫妙子『コパン』より/久保田利伸ネプチューン』より/古内東子『ストレングス』より/高橋真梨子『Couplet』より/米倉利紀『クール・ジャムズ』より/渡辺美里『スピリッツ』より/SMAP『009』より/吉田美和『ビューティ&ハーモニー』より/ほか

※マイケルに近い人脈ということで「郷ひろみ&24丁目バンド」などもかける予定です。

 

選曲・解説:池上信次

 

 

 

 

  • 第666回 10月12日(土) 午後3時30分より 参加費800円+飲食代金

ジョー・ファレル特集』

 

詳細は後ほど告知

 

                            解説 山中 修

                          

【ジャズ喫茶の客層変化】

 

 

これは「いーぐる」だけの現象かもしれないので若干タイトルは大げさなのですが、このところお客様の様子に変化が見られます。まず18:00時までの会話禁止タイムのお客様が急増しているのですね。それも初めてご来店のお客様方や、年配ご夫婦とみられるカップル、若い女性、そして外国からのお客様が目に見えて増えているのです。

 

最初は韓国からの方々で、これは昨年でしたか「ジャズ研・ジャズ喫茶部」さんのご紹介で韓国版マリ・クレールに「いーぐる」の記事が載ったことが原因とわかっているのですが、ちょっと驚いたのは中国からお見えの若いご夫婦でした。このご夫妻は昨年もお見えになり私と一緒の写真を撮っているのですね。おそらくこれは、ずいぶん前に中国のメディアで紹介されたからでしょう。それが情報源になっていたのか、先日来店された他の若い中国人カップルに「何でこの店を知ったのか?」と尋ねると、何と中国のネットに「いーぐる」の入り口の写真と中国語による店の案内と思しき情報が記載されていたのですね。

 

もっと驚いたのが台湾からお見えの若い男女5人組。会話禁止タイムのご来店でしたので、つたない英語で「当店はジャズを聴くお店なのでおしゃべりは出来ませんがよろしいですか?」と尋ねると、すべてわかっているとのこと。そう言えば、以前台湾のジャーナリストのインタビューを受けた記憶がありました。その方から今年もより詳細なインタビューを受けたので、また当地からのお客様がおいでになられるかもしれませんね。彼らもおそらくは事前にネットで「日本のジャズ喫茶」の事情を知っていたのでしょう。

 

来店される外国人はアジア圏だけではありません。先週はスエーデンからのカップル、そしてもちろんアメリカ、イギリス、フランスなど西欧諸国からのお客様方も大勢お見えで、しかも彼らもまた「会話禁止」という日本独特の「ジャズ喫茶ローカル・ルール」をご存じなのですね。それだけではなく、「常連客」と化した西欧系のお客様方も最近は目立ちます。ノートパソコンを開く若い男性、ワインを飲みつつジャズに耳を傾ける若い女性たちなど、一昔前では信じられない光景がこのところ目に付くのですね。日によってはお客様方のおよそ半数が外国勢ということも珍しくありません。

 

そしてメインは日本の若い女性客です。従来ジャズ喫茶はジャズオジサンたちの憩いの場としての機能を果たしていたのですが、このところ女性のお客様が目に見えて増えているのです。それもかなり熱心なジャズファンで、かかるアルバムごとにジャケットの写真を撮ったりメモしたりしているのですね。

 

いろいろな理由があるのでしょう。まず思い付くのはここ数年のジャズシーン自体の活況です。カマシ・ワシントンやエスペランサといった有力な新人ジャズ・ミュージシャンが来日し、ごく普通の音楽ファンの目が“ジャズ”に向かいつつあるのでは無いでしょうか。また、従来言われて来た「ジャズ喫茶の敷居」が低くなって来たのも大きな原因かもしれません。ともあれ、こうした新しいファン層はジャズファンの純粋増に繋がるので、ほんとうにありがたいことです。

【「ジャズ評論」についての雑感~その5「番外編の続き」】

 

 

いみじくも村井さんが指摘したように、ジャズファンの中にも、ある時期以降新譜をあまり熱心に聴いていない層が存在することは私も感じています。少し前でしたが、ジャズ関係者が大勢集まるパーティの会場で、名の知られたジャズ喫茶店主さんたちから「最近面白いミュージシャンいない?」と尋ねられ、ちょうどライヴを観たカマシ・ワシントンやスナーキー・パピー、ゴー・ゴー・ペンギンといった名を挙げたら、みなさんご存知ないようなのです。そのとき私は「これはちょっとまずいな」と思い、彼らの新譜や聴き所を私なりに紹介しておきました。

 

その方々の周りにはそれぞれ熱心な常連さん方がおいでになるはずなのに、こうした情報が入っていないことに少し驚くと同時に、「やはりなあ」とも思ったのでした。それは、なまじ年季の入ったジャズファンほどジャズ観が固定してしまっていて、一部の新人ミュージシャンたちの音楽を「あれはジャズじゃない」と一昔もふた昔も前の常套句で切って捨てているようなのですね。

 

これは決して非難ではなく、その気持ちは私もわからなくは無いのです。私自身、ある時期までそうした方々に近い感想を抱いていたからです。しかしここ5年ほど小学館さんとの仕事の関係上、「ジャズ史」、そしてジャズを含む「アメリ音楽史」を今一度見直してみて、自分のジャズ観が無意識のうちに「モダン期偏重」に陥っていることに気が付いたのです。

 

きっかけは、「ジャズの父」と尊敬されたルイ・アームストロングアメリカの国民的歌手フランク・シナトラ、そして先ごろ惜しくも亡くなったジョアン・ジルベルトといったボサ・ノヴァ・シンガーたちなど、ジャズ喫茶ファンには若干距離のあるミュージシャンたちを集中的に聴いた貴重な体験です。

 

詳しくは小学館から刊行されたCD付隔週刊ムックをご一読されたいのですが、このシリーズは、基本的にジャズに関心はあるけれどあまり詳しくはない一般読者を対象としているため、かなりていねいに説明をしています。事情通ならお分かりかと思いますが、ジャズ書で一番難しいのが「入門者向け」なのですね。

 

理由は、入門者には「ファンなら当然そんなことはわかっているよね」とマニア向けの「前提抜きトーク」は使えないところにあるのです。これはけっこうキツい。キツさの理由はいろいろあるのですが、一番の問題点は「ジャズとは何か」という、マニア間でも揉め勝ちな設問に対し、わかりやすいことばで正面から説明しなければならないところです。

 

付け加えれば、上記以外でもジュリー・ロンドンビング・クロスビーといった、人気はあってもエラ・フィッツジェラルドメル・トーメといった「わかりやすいジャズっぽさ」から距離のあるミュージシャンの「聴き所」を、「ジャズの本質」と関連付けて説明するには、“ジャズっぽさ”の「具体的内容」を私自身が再確認しなければいけないのですね。

 

その「再確認」の過程で、それこそルイ・アームストロングからカマシ・ワシントン、エスペランサまで、ジャズの本質を抽出する視点で聴き直した結果、前記のような私自身の「モダン偏重のジャズ観」が浮かび上がって来たのです。それはパーカーが切り拓いた即興重視のスタンスが、結果として、ジャズが誕生の頃持っていた大衆融合音楽という基本性格を大幅に芸術性重視の方向に転換させてしまった、「芸術音楽としてのジャズ」というジャズ観ですね。

 

パーカーが切り拓いた成果はたいへん大きく、彼に触発されたマイルス・デイヴィスジョン・コルトレーン、そしてビル・エヴァンスといったモダン・スターたちの華々しい活躍は、多くの音楽ファンの「ジャズ観」を決定的なものとしたのでした。もちろん私のジャズ体験もそこが原点です。

 

とは言え、“ビ・バップ”に始まる「モダンジャズの時代」は、19世紀末に始まり既に120年近く経つジャズ史のうち、40年代後半から60年代末に至る、わずか20年ほどのことであり、期間としては「全ジャズ史」の5分の一にも満たないのです。

 

では、ルイ・アームストロングがその基本方向を形作ったとされる“ジャズ”から、“モダン期”も含め、現在のジャズシーンの隆盛に至るまで一貫した「ジャズの本質」とはいったい何なのでしょうか。

 

私はそれを「個性的表現を第一とする音楽」として捉えたのです。もちろんどんな音楽ジャンルも演奏者の個性的表現は重要ですが、クラシック音楽の場合は作曲者の意図がそれに制限を加え、伝統的民族音楽は一定の文化的規範が個性表現に制限を加えています。

 

また、ポピュラー・ミュージックの場合は、多くのスターはヒット曲と共にデビューするケースが大半です。そうした場合、ファンはまずもってユニークかつ魅力的な楽曲を演奏・歌唱する存在としてミュージシャンの存在を知り、結果としてファンになるのですね。彼らにとって楽曲の存在はクラシック音楽とは別の意味で重要な要素となっています。

 

ジジイなのでたとえが古くて申し訳ありませんが、私がビートルズを知ったのは「抱きしめたい」や「ア・ハード・デイズ・ナイト」といった、60年代当時としては極めてキャッチーな楽曲を演奏するミュージシャン・チームとしてであり、楽曲より先にビートルズの存在を知っていたわけではありません。これは同世代の多くの音楽ファンにおいても同様でしょう。

 

彼らの場合、もちろん個性的な存在ではあったのですが、キャッチーな楽曲を極めて魅力的に表現することが、ファンに認知される前提条件となっていたのですね。言ってみれば、楽曲の存在と個性表現が極めて有機的に結びついているのです。もちろんジャズ・ミュージシャンにおいても楽曲との絡みでの認知という現象は見られます。「ハロー・ドーリー」とルイ・アームストロング、「ラウンド・ミッドナイト」とマイルス・デイヴィス、あるいは「奇妙な果実」とビリー・ホリディなど。

 

しかし注意すべきは、彼らは上記の楽曲によって「一般的認知」を得る前から、ジャズ・ミュージシャンとして十分以上の評価を「ジャズファンたちから」得ていたのですね。そしてその評価はそれぞれが極めて個性的な存在だったからなのです。このことは、いわゆる“スタンダード・ナンバー”とそれらを採りあげたジャズ・ミュージシャンの関係を見ることによって、より鮮明に浮かび上がって来るでしょう

 

 

というところで今回は一休み、続きは次回に譲ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【「ジャズ評論」についての雑感~その4(番外編)】

 

 

ツイッターは観ているだけですが、最近ジャズを巡る面白い騒ぎがありました。柳楽光隆さんに初対面のさる音楽関係者が「ジャズは終わった」と否定的なコメントを発し、柳楽さんがおおいに憤慨しているようです。常識的に考えて、初対面で相手の専門領域のジャンル自体を否定的に捉えること自体、失礼であることがわからないはずがなく、明らかにこれは挑発ですね。

 

こうしたやり取りに対し、友人の音楽評論家、村井康司さんがツイッターで実に適切な評価を下しています。村井さんは

 

「ベテランのジャズ・ファン、それも音楽業界にずっといた方にも、ジャズは死んだとか今のところジャズは駄目だ、と言う人はけっこういますけどね。そういう人はどこかで新しいものを聴かなくなっているだけなんだけど、そういう意見を聞きかじりでリピートしてる感じがします。」

 

とコメントしていますが、まさに同感。要するに、その「音楽関係者」は不勉強なんですよ。もっとも誰だって「専門領域以外」のことは不勉強なんですから、謙虚に柳楽さんに「最近のジャズってどうなんですか?」って質問すれば、適切な会話が続いたんじゃないでしょうか。

 

その上で、「私は最近のジャズに対し『終わった』と思っているんですよ」とでも話しかければ、最新ジャズ状況に詳しい柳楽さんなら適切な実態をその方に説明したんじゃないでしょうか。まさにその方は重要な音楽情報を受け取るチャンスを逸したんですね。

 

まあ、村井さんの適切過ぎる「総括」でこの話は終わりなんですけど、私自身、同業のジャズ喫茶関係者からくだんの「音楽関係者氏」に近いコメントをいただくことが少なくなく、「この問題」はけっこう根深いように思います。というわけで、この件を私なりに掘り下げてみようと思います。

 

そもそも問題の発端は、いみじくも村井さんが指摘している「そういう人はどこかで新しいものを聴かなくなっているだけなんだけど」というところにあるように思うのです。というのも、私自身、ジャズ喫茶という現場にいなかったら「ベテランのジャズ・ファン、それも音楽業界にずっといた方にも、ジャズは死んだとか今のところジャズは駄目だ、と言う人はけっこういますけどね」の一人になっていた可能性はかなり高いからです。

 

私はジャズ喫茶の役割は、「ジャズ」と「ジャズファン」を結ぶ結節点だと考えているので、最新のジャズ情報は柳楽さんなどのアドヴァイスを受けつつ自分の好みとは切り離し、一応目を通しているおかげで、ここ数年のジャズシーンの活況を肌身で感じているわけですが、そうでない「一ファン」は、過去の体験に縛られがちなのもわからないではありません。

 

とは言え柳楽さんを挑発した方は素人ではなく、一応音楽に関わっている方なのですから、これは不勉強の誹りは免れませんが、それはさておき、私が問題にしたいのは何故「過去の体験に縛られるのか?」というところにあるのです。

 

それに対する答えは私なりに出しています。それはベテラン、ジャズファンほど、「ジャズ史」に対する理解が浅薄というか一面的なのですね。彼らは19世紀末に始まり既に100年を超える全ジャズ史の、5分の1にも達しない「モダンジャズ史」を金科玉条のものとして信奉する視野狭窄に陥っているのですね。

 

「耳派」を自称する私ですら、「頭派」と言いますか「ジャズ史的知識」を借りなければ、肝心の「耳」自体が視野狭窄というか聴覚狭窄に陥ってしまう危険は承知しているのです。

 

というところで、その具体的内容は次回に…

                          

  • 第663回 7月20日 (土曜日)午後3時30分より 参加費1200円+飲食代

『越境する音楽家たちによる対話』~関口義人、新著刊行記念イヴェント

 

7月刊行のこの本には日本で活動する音楽家30人が2人1組の対談形式で参加し、それぞれが目指した世界の音楽へと向かったきっかけや現在のその成果を語りあっている。本書に登場する8名の女性ミュージシャンの中の一人、会田桃子さんはアルゼンチンでの長い生活でタンゴを学び日本でも有数のタンゴバンドでバイオリニストとして活動してきた。

いわゆるワールドミュージックとしてくくられてきた世界の音楽だが、音楽家自身はあくまで”ワールドミュージック”というより自分の目指した領域の音楽に焦点を絞って研鑽してきた。今回の会田さんの対談相手はブラジル音楽でギターを演奏する笹子重治氏だったが、この2人の関係性はブラジルとアルゼンチンという隣国同士の関係性よりはるかに距離が感じられ、この2つの国が全く異なる文化を有する国であることが明確だった。では80年代に世界に拡散した「ワールドミュージック」とはいったい何だったのか?リスナーの抱く世界観と音楽家自身が描く世界観とのずれに着目しながら対談を進めます。

 

:当日は新著の即売も行います。

 

対談:関口義人(著者)× 会田桃子(タンゴバイオリン奏者)

 

            

 

 

  • 第664回 7月27日(土曜日)午後3時30分より 参加費1200円+飲食代金

『2019年のLIVE UNDER THE SKY』  

 

夏が来れば思い出す・・・。1980年代の東京のジャズ・ファンにとって、7 ⽉最終の⼟⽇2⽇間は、よみうりランドの「オープンシアターEAST」という 聖地巡礼のための時でした。ライブアンダーでシーンの「最前線」を体感し、 8⽉の斑尾やMt.Fujiでノホホンと「ノスタルジー」を楽しむ。30数年前に は、そんな幸せな「夏時間」がありました。 1977〜1981年@⽥園コロシアム、そして1983〜1992年@オープンシアタ ーEASTと計15回開催された「LIVEUNDERTHESKY」。伝説のVSOPク インテットやマイルス、ロリンズ、オーネット、サン・ラ、ハービー、チッ ク、メセニー、サンボーン、ギル・エヴァンスwithジャコ、さらにロバータ・ フラッグ、ミルトン・ナシメントブラック・ウフルなど、その多彩なライン ナップはまさしくプロデューサーであった鯉沼俊成⽒の慧眼の証でした。イベ ント・タイトルにあえて「ジャズ」という⾔葉を付さなかったこ画期的マーケ ティング思考や⼤胆な演出やメディア・ミックスetc.、ライブアンダーに出会 ったからこそ⾳楽の仕事に就いたという⼈間は私を含めて⼤勢います。 当⽇は取材等でライブアンダーの出演アーティスト達と幅広く接してこられた 池上⽐沙之さんをゲストに迎え、マイルスを筆頭に様々なエピソード・トーク を交えながら、公式ライブ・アルバムやTVオンエア映像であの熱気を追体験 していきます。秘蔵⾳源や貴重なお宝グッズの開陳、さらに参加者の皆さんへ のプレゼント資料もご⽤意しております。どうぞ、ご期待ください! あの夏の⽇の感動が、いーぐるに蘇る!

 

トーク:Moto上原(元SMEジャズ・ディレクター)

ゲスト:池上⽐沙之(⽂筆家) 内山 繁(カメラマン)