1月29日(火)

昨日の八田さんの意見にあった「世代の問題」という視点は、本質的なところを突いた指摘だと思う。私としては、この世代論と同時に、清水さんの「読みにくい」文体論についても「1.26」でもう少し議論したかった。
私の考えでは、清水氏(1927年生まれ)の剽窃問題は、文化輸入国日本の宿命だと思う。明治開国以来、洋楽は言うに及ばず美術、文学、演劇などすべて西欧から輸入した日本は、それらについて知ろうと思えば海外の文献に頼らざるを得なかった。
この風潮は60年代、70年代になっても続き、やれマクルーハンボードリヤールだといった連中の言ったことを、さも自分が考え出したようにして本にすることが当たり前に行われていた。そして読みにくい翻訳より、それを噛み砕いた「実用書」が歓迎されもした。清水さんがものを書き始めたのはこういう時代だった。
もっとも清水さんの文章は決して読みやすくはない。だから私は彼の書いたものを熱心に読もうとはしなかったのだが、それはさておき、読みやすくないからこそ惹かれる人たちもいた。そうした、難解だからこそ惹かれる対象として、同じく亡くなってしまった間章も挙げられるだろう。
間さんも70年代にハイデガーやらセリーヌといった、一般の読者が近づきがたい「難解系」テクストを散りばめたジャズ評論を行っていた。私も、彼のハイデガー理解は少々偏っているんじゃないか、などとエラそうな感想を抱きつつも、どうしたことかけっこう愛読したものだ。彼独自の楽器論など、影響を受けた部分もある。
という経験を基にして思うのだが、清水氏や間氏のような一般の読者が近づきにくい人たちが論じるミュージシャンが、アート・アンサンブル・オブ・シカゴであるとか、セシル・テイラーといった、これまた普通のジャズファンが敬遠しがちな前衛系ミュージシャンなのである。
ロラン・バルトだったか、書かれる対象とそれを語る文体には関係があるというようなことを言っていたけれど、前衛ジャズはまさにその通りの状況だった。これはやむを得ない様な気もする反面、もう少し何とかならなかったものかと思いもする。もともとファン層が薄い前衛音楽が、入り口の紹介も難解なので余計参入する人数が減っているんじゃないだろうか。
極端な例えだけど、いソノさんがセシル・テイラーを紹介したらどんな按配になっただろうか、とか、清水さんがハンク・モブレイをどう書くだろうか、などと想像してみると、そこにジャズ評論の可能性が広がるような気がするのだ。難しい音楽は難しく書かなくてはいけないという先入観を払拭するだけで、新しいファン層、新しい批評家たちが生まれるように思うのは妄想だろうか。