1月31日(木)
清水問題を世代論、文体論としてみると、世代とは時代のことでもあり、この部分については彼我の情報格差がビジネスになりえた、古きよき時代の昔話とも言えるだろう。ネット情報が世界を巡る21世紀では、海外の文献を剽窃するような事例は自然淘汰されていく。この意見は八田さんの私信にも書かれていた。
そうしてみると、今回の一件に何かしら今日的意味を見出そうとすれば、ジャズをどのように語るのかという、文体の問題が残る。「1.26」イヴェントの際、おそらくジャーナリストを目指しているのであろう参加者の方から、「主観的に語るとポエムのようになってしまう」という質問が出たが、これはまさに文体の問題だろう。
この設問は必然的に、なぜジャズを語るのかという問題と関わってくる。ジャズそのものを伝えようというのはごくオーソドックスな発想で、私などはそうしたスタンスでものを書いているが、そうでない人もいる。小林秀雄ではないけれど、己を表現するための素材としてジャズを書くということだって当然ありうるだろう。
そういう発想の人にとって文体の問題は切実だ。私などは、まず、わかりやすく、次に読み手の興味、関心を持続させるためのテクニック、という意味ではそれなりに文章に気を使うけれど、それ以上ではない。そこで自己表現を行おうなどとは思っていない。
もっとも何事も程度の問題で、ジャズを伝えるという行為自体がすでに自己表現でもあるわけだ。とはいえ、文学行為としてジャズについて書くのと、ジャズとはどういうものか自分なりの理解をファンに伝えようとして文章を書くのでは、おのずとスタンスが違う。
話を清水さんに戻せば、彼はその辺りをどう考えていたのだろう。興味のあるところである。というのも、海外のジャズ情報を伝えれば良いという目的に絞ってみれば、モラルのことはさておき、外国の文献を翻訳してしまうというのは、それなりに目的に合致している。
だが、詩人である彼の立場はその時どうなってしまうのだろう。私は詩人ではないので間違っているかもしれないが、詩人は自分のことばを大切にするはずだし、それが表現者としての詩人の存在意義なのではないだろうか。だから、今回の件はまったく私にとって理解不能なのである。