7月23日(水)

暑いですねえ。ちょっと趣向を変え、(分をわきまえず)蓮実さんについて書いてみようと思う。おおかたの団塊世代同様、ワタシも蓮実氏に対する当初の印象は芳しからぬものだった。ナニもってまわった言い方しちゃって、、、という、至極ありがちなネガティヴ反応だったのだが、それでも気にはなっていたので、何冊か評論を買い進めるうち、江藤淳氏との対談『オールド・ファッション』(中央公論社刊)という、当時(昭和60年)としては意外な組み合わせ(その頃、蓮実氏は左、江藤氏は右という暗黙の思い込みがあった)を読んで、なんだ、まっとうなお方ではないですか、という、実にゴーマンな、しかし、個人的な印象の好転体験があったのだった。
それ以降、過去のものも含め、氏の著作はほとんど目を通していたが、いくつか印象的なところをピックアップしてみよう。まず吉本隆明氏との漱石談義から。吉本は人間としての漱石を大きく見、それに対し蓮実は、作品だけを抽出しようとする。加えて、生身の漱石を再現したいという欲望のありかをモンダイにする。(蓮実重彦『饗宴 II』日本文芸社刊、p,105~107)
このくだりを読んで、軽薄なワタクシめは、オレの発想は蓮実さんに近いぞ、などと思い込んでしまったのですね。今になって読み返せば、吉本氏の言うことだってもちろんそれ相当の重みはある。
ただ当時は、ポール・リクールの『解釈の革新』(白水社)などの影響もあって、テキストを作家の内面にまで遡って解釈しようと試みる(暑苦しい)「ロマン主義的解釈」に対する反発が、蓮実支持の引き金になったような気がしないでもない。とはいえ、今でも私はミュージシャンの私生活や内面にはあまり関心ないんだけど、、、
もう少しわかりやすい話をすれば、蓮実氏の映画評論は、表面のヌエ的ナンカイ文体を剥いでしまえば、実にシンプルなのだ。要するに画面をチャンと見ろということ。氏の評論は、それ以前の、やたら政治的な「読解」に力を注いだ割には、肝心のカッコいいショットについて何の言及もないような「映画評論」に対する痛烈な批判になっていた。そして氏の映画評論をジャズに当てはめてみれば、チャンと音を聴かないで、やたら政治的コノテーションを穿り出そうとする(暑苦しい)「60年代的」ジャズ批評にウンザリしていたワタクシの膝をハタと打つものだったのだ。
ところで、ホントーの“恥ずかしさ”を実感するには、蓮実氏の身も蓋もない著書『凡庸な芸術家の肖像〜マクシム・デュ・カン論』(ちくま文庫、上下巻)を読み、トコトン暗くなっていただく必要があると、ワタクシめは考えております。それはそうと、蓮実さん、復刊『早稲田文学』に登場してますね。(表紙の女性が作家だって知らなかった)