1月28日(土)

良い講演はお客様のリアクションがはっきりしている。長谷川町蔵さんと大和田俊之さんによる話題の名著『文化系のためのヒップホップ入門』(アルテスパブリッシング)刊行を記念した本日の『ヒップホップ講座』、講演終了後の質疑応答では高度かつ中身の濃い質問が多数出て、めったに無いことだけど、こちらから「もうこの辺で」と終了宣言を出すほどお客様の反応が熱かった。

例のごとく、曲目ごとの詳細な解説は熱心なジャズブロガー「いっき」さんがご自分のブログに掲載されているので、そちらをご参照していただくとして、私は全体の印象、個人的な関心事を書いておく。

大和田さん、長谷川さんとも初対面。しかし、あらかじめご著書を読ませていただいているので、何とはなしに親近感がわく。また、現在大和田さんの名著『アメリ音楽史』(講談社選書メチエ)も熟読中なので、お二方の音楽に対する基本姿勢みたいなものには大いに共感を抱いている。

「共感」の中身を思い切り要約してしまえば、“音楽から聴こえてくるものを大切にする姿勢”だと思う。これは当たり前のことのように思われるかもしれないが、世に流通する「音楽書」は必ずしもそうはなっていない。

ジャズ小説の傑作、ジェフ・ダイヤー著『バット・ビューティフル』(新潮社)の書評(『JaZZ JAPAN』掲載)でもちょっと触れたが、文学、美術などに比べ、音楽は一番記述するのが難しい分野なのだ。詳しい説明はいずれ「think」に書こうと思っているので省略するけど、その難しさを理解したうえで、いかに“音楽が鳴っている現場”に寄り添うことが出来るかが「音楽書」のキモなのだが、お二方の『文化系のためのヒップホップ入門』も、大和田さんの『アメリ音楽史』も、そのポイントがしっかりと押さえられている。

今回の講演に即して言えば、何よりも“具体的な音”の説明がキチンとなされた上で、それが出て来た背景、“物語”等の解説が為されているところだと思う。たとえば、黒人音楽を語るときに、紋切り型のように為される「抵抗の神話」についても、そうした側面を認めつつ、ブラックピープル自身がそれを“相対化”し、あるいは“利用”しているという複雑な内実に対してもサラっと注意を喚起する姿勢は、知的であると同時に、音楽と異文化に対するさり気無い誠意が感じられた。

講演、著書を含め、個人的関心に引きつけて言えば、私の好きな黒人音楽の「黒人性」とされる要素が、必ずしも単純に成立してきたわけではなく、それ自身が「黒人(性)」に対する差異化の視線から生み出された「白人」音楽の影響を想像以上に受けており、また、それらは歴史的に相互に干渉し合ってきたという複雑なループの存在を、具体例を挙げつつ簡明に解説してくれたことだ。

当日の音源について言えば、以前鷲巣功さんに『ヒップホップ前夜』というタイトルで講演やっていただいた頃は、いわゆる「前期」というのだろうか、ちょっと荒々しい感じのトラックが自分の好みだと思ったものだが、その後、原雅明さん、D.J.アズーロさんに『ヒップホップ・プロデューサーを聴く』というタイトルで講演をお願いし、「それ以降」のヒップホップも別の意味で面白いことを知った。そして今回の講演では、そのことが「ヒップホップ史」の流れの中で確認されたことが大きい。

つまり、なるほど、こういう風に変わって来たんだということが少しずつではあるけれど見えてくると同時に、「それぞれの時代の特徴」「それぞれの面白さ」が、うっすらとではあるけれど見えてきたのである。

また、黒人音楽について必ず言われる「アフタービート」の由来について、実はオリジンと思われ勝ちなアフリカのリズムが必ずしも「後乗り」というわけでもないことや、ヒップホップにおけるラテンリズムの影響など、このところ考え続けている問題が俎上に登り、大いに啓発された。

まだまだシロウトに毛が生えた程度のにわかヒップホップファンだけど、このジャンルの面白さが二つの意味で実感されたことが、お二方の講演を聞いての大きな収穫だった。まずは理屈抜きの音の面白さであり、そしてこのジャンルの持つ不思議な音楽的意味である。つまりオリジナル神話に対する挑戦であると同時に、テクノロジーが人々の聴感を刷新していくダイナミズムの現場を垣間見る面白さだ。

そしてこうした風景は、まさに現代的であると同時に、実は太古の昔から音楽とはこうしたものだったのではないかという、不思議なデジャヴ感覚だ。出来うれば、今後もお二方に講演をお願いしたいと思う。