think22 -- ジャズを聴くことについての原理的考察 第22回

気が付いてみたら、前回thinkを書いてから8ヶ月も経ってしまった。なぜこれほどまで間が開いてしまったかについては、目前の締め切りに追われた、などという瑣末なことどもを含め、いくつかの理由がある。しかしそのもっとも大きなものは、この1年ぐらいの間で私のthinkに対する構想が変化してしまったからだ。
もともとthinkを書き始めたとき明確な展望など無かったのだが(つまりは、書きつつ考えるという姿勢をとっていたので)それでも回を重ねるうちに、ぼんやりとではあるけれど、やるべき作業の道筋のようなものは見えていた。
日本のジャズ評論の貧しさの原因とでも言うべき「主観論」(個人の趣向で一切を裁断する立場)と「客観論」(ジャズに客観的価値基準があるはずだという論者)の不毛な論争を乗り越えるべく、ジャズ的価値を共同主観性という観点で捉えるべきだという主張をわかりやすく展開し、そこから「ジャズがわかる」という現象を具体的に説明する、というのが一通りの展望ではあったわけだ。
その構想自体には今でも特段変更の必要はないと思うのだが、問題は結論である。私の目論見としては、前述の論考を基に、現在一部の恣意的ジャズ関係者の妄言に扇動された俗流ファンによって混乱、衰退しているジャズ的価値の再構築が可能だと楽観視していたのだが、どうもことはそれほど単純ではないようだと、ここ1年ぐらいの間で考え方が変わってきた。
簡単に言ってしまえば、かつては有効に働いていた「ジャズ的価値を支える間身体的な共感の場」=音楽ファンの集合は、もはや望めないのではないかという予感と、仮にそれが有り得たとしても、その「新たな集合構成員」の身体感覚自体が変容している可能性である。
特に、目に付くさまざまな兆候から推測するに後者の可能性は高く、そのことを踏まえない議論は無意味であると考えるようになった。実を言うとこの問題の根は深く、はるか昔私自身が漠然と抱いていた哲学上の疑問が、ジャズという具体的事象において現象したということのようだ。
すでに書いたことだが、私のものの考え方は20代の頃読んだメルロ=ポンティの『知覚の現象学 (叢書・ウニベルシタス)』によって大きな影響を受け、現在ジャズについて物を書くときも彼の身体論をわかりやすく敷衍するスタイルをとっている。
だが、30代(奇しくも後述する『ジャズ構造改革』で話題となったウィントン・マルサリス登場の年だ)になってから読んだミシェル・フーコーの『言葉と物―人文科学の考古学』(新潮社)の衝撃も大きく、私の中では「ポンティが正しければフーコーは誤りであり、フーコーが正しければポンティの議論には見落としがある」という、哲学プロパーでもない一介のジャズ喫茶オヤジの手に余る難問を抱えていた。
無謀にも『言葉と物』の内容をひとことで説明すれば、われわれの世界把握には人々の自覚しない「認識の切断面」が存在するということで、これは身体の同一性を原理とするポンティの議論とは微妙な齟齬をきたす。もちろん現在でも、この問題を整合的に説明する能力など私には無いが、経験的に、両者の議論のすり合せは出来ない相談ではないと考えるようにはなってきた。
この話がどうジャズと結びつくのか、少し具体的事実に即して説明してみよう。身近な話題からはじめれば、つい最近上梓した『ジャズ構造改革 ~熱血トリオ座談会』(彩流社)の鼎談を行いつつ、現在のジャズ状況を冷静に観察しなおしてみたという経験がまずある。そしてそれと同時並行的に、私にとって初めてのニューヨーク行きという経験が重なる。
その過程で、前記の「ジャズ的価値を支える間身体的共感の場さえ立ち上げれば、ジャズの再構築は可能だ」という楽観論は私の中で急速に現実性を失っていった。新しいジャズ自体のエネルギーが明らかに減退しており、それはミュージシャンの力量や調子ではいかんともしがたい原理的な理由によってもたらされた現象だという確信である。かつては圧倒的パワーを発揮した、「黒人の身体感覚と西欧音楽との融合」という装置が既に機能していない、あるいはエネルギーを消費し尽くしてしまっているのである。
それと同時に、『ジャズ構造改革』の中でも若干言及された益子博之氏の『ジャズ批評』連載記事*1が、まさに現在のジャズ状況の最も重要な問題に焦点を当てているという希望的事態もまた進行中であった。
思い起こしてみれば、1988年に書いた私の処女作『ジャズ・オブ・パラダイス―不滅の名盤303 (講談社プラスアルファ文庫)』(講談社プラスアルファ文庫)で既にウィントンに対する疑問を提示しており、同著には「メタ・ジャズ」という言い方でいわゆるポスト・モダン的状況(これは一種の認識の切断面が浮上した現象として捉えることが出来るのではないか)を概観している。この姿勢は10年後に上梓した『JAZZ百番勝負―ジャズを本気で愛するための100枚100曲 (講談社SOPHIA BOOKS)』(講談社ソフィアブックス)にも引き継がれており、ウィントン・マルサリスや、ジョン・ゾーンを引き合いに出して再度この問題に言及している。
つまり私はジャズについて物を書き出す最初から、この問題は喉に引っかかった魚の小骨のように気にはなっていた。だが、さまざまな留保を与えつつこの件に言及しながら結論は避けてきたようなところがあった。(それは、現にジャズ喫茶という職業についていたということと無関係ではないだろう)しかしことここに至って、もはや猶予ならない状況となったことを実感したのである。
『ジャズ・オブ・パラダイス』『JAZZ百番勝負』では、ミュージシャン、聴衆の双方におけるフーコー的認識の切断面を感知しつつも、そのズレはポンティ的身体の同一性によって乗り越えられると漠然と期待していたフシがある。しかし、ここ1年ほどの間にその可能性は否定され、むしろ積極的にフーコー的切断面を直視することこそが目下の緊急の必要性であると考えるようになったのである。
とはいえ、そのことはポンティの議論が否定されたということではなく、彼の身体論が成立する可能性の条件が、フーコーによって提示されたということだと理解している。具体的に言えば、間身体的な共感の場自体が著しく縮小し、そうした「場」が文化装置を支えるという機能を喪失しつつあるという可能性がまず考えられる。縮小の原因はいわゆる「文化の蛸壺現象」といわれる若年層(場合によっては40歳代にまで及ぶかもしれないが)における趣味趣向の多様化にある以上、ことはジャズに限らない。
ただここで問題となるのは、仮にフーコー的切断面の存在が間身体的共感の場を分断したのだとしたら、世代間の認識の分離という現象が予測されるにもかかわらず「蛸壺化現象」はそれだけではなく、明らかに同世代における趣味の分断をも来たしているわけで、そうだとすれば、ことは単純にフーコー的認識の切断という文脈だけでは理解出来なくなる。
ともあれ、今回の論考はthinkの構想に変化が起きたという報告にとどめ、その厳密な検証は次回以降に譲りたいと思う。メルロ・ポンティとフーコーの関係についても、今回はメモ的なものであり、正確な引用等はあえて行わなかった。

*1:『ジャズ批評』No,124 / 2005年3月号掲載『ジャズ「けものみち」を往く』を参照のこと。この論考は、まさにジャズ的身体感覚が聴衆は言うに及ばず、ミュージシャンにおいても崩壊変容している事実を指摘している。