1月5日(日)

今年は正月から良く働いた。短い原稿2本を書く合間、元旦から三が日にかけ、店のレコード、CDを大整理。いーぐるのレコード、CDおよそ8000枚ほどは、その大半をレコード室内に収容、入りきらないものは店内2ケ所の物置にしまってある。置き方はアルファベチカルだが、これは合理的な様でけっこう問題もある。
かける頻度の高いものも、5年に一度取り出すかどうかといったものも一緒くたなので、ジャッキー・マクリーンなどけっこう多用するものが、しゃがんで左手で狭い隙間から抜き取らなければならないような位置にあったりと、かなりメンドウ。そこで、登場頻度の高いもの1000枚あまりを別枠として並べ替える作業だ。
大量にレコード、CDを保有している方ならわかると思うけれど、この作業ヒジョーに時間がかかる。整理の途中は店内にレコード、CDを並べるので、少なくとも三日以上休みが無いと無理と踏んで正月に行なったのだが、やはり連日6時間近くかけても丸々三日かかった。
大作業を終え、北里義之さんから送られてきた『サウンド・アナトミア』(青土社刊)を読んでいると、私の名前が出てくる。もちろん北里さんとは知り合いだが、「高柳昌行と音響の起源」とサブタイトルが付けられた本書の内容は、いわゆるふつうのジャズ本(私などが普段書いているようなという意味での)ではない。
だからちょっと意外な気がしたけれど、よく読んでみるとなるほどそういうことかと納得した。本書の第2章「ケージではなく、何が〜音響の解剖学」は、音と言葉をめぐる批評誌『三太』の5号に掲載された大谷能生氏の論考「ジョン・ケージは関係ない」に対する北里さんの応答という形をとっており、その中に佐々木敦氏やミシェル・フーコーと共に私の名が出てくる。
佐々木敦氏のテクノイズ=音響派論が特権化する「聴くこと」に関連し、佐々木氏の立場と私の立場を対比させているのだ。北里さんに言わせると、佐々木氏は「音楽史上、最初で最大のコペルニクス的展開を成し遂げた」とされるジョン・ケージへの言及に見られるように、概念の単数性を前提にしており、後藤が示すような耳の集団編成を可能にする一種の公共圏を持つこともできない、と言うことのようだ。
私は佐々木さんの著書を読んだ訳ではないし、いわゆる「音響派」についての知識も不足しているので、その部分に対するコメントはできないけれど、北里さんが私の年来の主張であるとしている、音楽の聴取を可能にする場(ある種の共同体=間身体的な共感を前提としなければ「音楽」自体が成立しないということ)という考え方は、その通りだと思う。
また北里さんはジャック・デリダのグラマトロジー論を援用し、
デリダの議論はさらに進んで、私たちがライヴと思っている演奏でさえ、つねにこうした音盤による耳の再構成に侵犯されているだけでなく、むしろ実はそこから生れてきた概念であることを論じ、レコードというメディアが、生の演奏をただ記録に止めるためにだけあるのでも、また生の演奏を聴くことができなかった代補として存在するようなものでもないことを証明した。」
「すなわち、即興演奏はレコード・メディアによる耳の教育と不可分にある。レコードがなければ、即興という概念も、その演奏も、決して生れてこなかっただろう。後藤雅洋の「聴く立場」は、実のところ、聴くことだけに止まらないのである。」
と述べている。
この議論の当否はおいておくが、感覚から観念が生れ、また、観念が感覚を規定する相互作用というか両者の弁証法的関係については、ずいぶん昔にディスク・ユニオンが発行した小冊子(沼田順さんが編集長だった「What’s New」)上で、北里さんと往復書簡を交わしたことがあるのを思い出した。その時の論点はオーネットのハーモロディックについてだった。
ともあれ、おそらくはthinkを読んでいただいた上での私の登場なのだろうが、誰も読んでいないと思っていたものがどこかで顔を出すのを見るのはありがたいことだ。