think04 -- ジャズを聴くことについての原理的考察 第4回 

私がこの考察で目指しているのは、たとえば、「メアリー・ジェーン」のマスターは「良い耳」をしている、だとか、有名なジャズ喫茶のオヤジがやたらホメているアルバムを買ってみたけれど、3日で下取りに出してしまった、というようなジャズ・ファンの日常会話の意味を基礎づけることである。
「良い耳」とは具体的にどういうことなのか。どうしてある人物には演奏の良否が判別できるのか、なぜ、特定の人物の評価なら信用できると思うのか。その基準は何なのか。もしそういったものがあるとすれば、それは「客観的」なものなのか、あるいは単なる各人の思い込み「主観」に過ぎないものなのだろうか。
いうまでも無く、ジャズ・ファンの言う「良い耳」とは、隣の部屋で寝ている人の寝言が聞き取れるとか、三軒先の路地裏で縄張り争いをしている猫の鳴き声を、「あれはうちのタマに違いない」と識別できる、というようなことではない。それらは異常に発達した〈感覚〉には違いないが、ジャズ演奏の良否を判断する能力とはとりあえず別物であるはずだ。
しかしまたジャズを聴く能力が、こってりとした豚骨ラーメンのようなベン・ウエブスターのテナー・サウンドと、それに比べればあっさり京風味付けお茶漬けにもたとえられるレスター・ヤングのテナーの音色との違いを、正確に聴き分けられる「聴覚」に裏付けられていることも認めざるを得まい。
そうした識別能力は、ミュージシャンの経歴やレーベルの裏事情といった、いわゆるジャズ解説書や、ネット情報から得られるような言語的「知識」ではなく、実際にライヴに足を運ぶなり、じっくりアルバムを聴取するなりの〈感覚的〉体験からしか得られないということも経験的に理解できるだろう。通信教育(!)の空手がストリート・ファイトに役立たないのと同じことである。
だから演奏の良否を判断する基礎はやはり〈感覚〉なのである。しかしこの〈感覚〉は、われわれの日常会話での「良い感覚」というレベルを、基礎付けるものではあっても、イコールではないことに十分な注意を払わなければならない。
たとえば「違いのわかる人」という言い方で、ものの良否を判別できると思しい有名人をおおぜい登場させたインスタント・コーヒーの宣伝があったが、世間には「違いはわかっても、どちらが優れているか判別できない」という人たちもまた、たくさんいるということを忘れてはいけない。
たとえば、メーター何十万円もするオーディオ・ケーブルが売られているが、確かにそれらを使用すれば確実に音は変わる。しかしその変化の意味(今、自分が目指している音の方向に対してポジティヴな効果なのか、ネガティヴな効果なのか)を聴き分けるには、相当のオーディオ的センスが要求される。多くのオーディオ・ファンは単なる「違い」のレベルで撹乱され、商業主義の餌食となっているように見える。もっともそれを承知で楽しんでいる分には、他人がとやかく言うことはないのだが……。
ともあれ〈感覚〉が「良い(優れた)感覚」すなわち「良い耳」にまで成長、到達するには、その間にいくつもの段階を経なければならない。
そしてその段階もまた、経験を重ねる、時間を経る、という意味での、いわゆる横軸的「通時レベル」と、〈感覚〉自体が内包する「重層的意味の厚み」である、縦軸的な「共時レベル」の二つの位相について慎重に検討しなければいけない。「通時性」「共時性」という一般にはあまりなじみの無い用語は、ご存知の方もおありと思うけれど1857年スイスに生まれた言語学者、フェルデナン=モンジャン・ド・ソシュール(Ferdinand-Mongin de Saussure)の提唱した「構造主義言語学」における用法に想を得ているが、ここでの使用法は言語学における概念とまったく同じというわけではない。
少しばかり余談となるが、一昔前一世を風靡した「構造主義」という思考法は、このソシュール言語学の流れを汲む言語学者ロマーン・ヤーコブソン(Roman Jakobson)の影響を受けた人類学者、クロード・レヴィ=ストロース(Claude Levi-Strauss, 1908年ベルギー生まれ)による、「構造人類学」(みすず書房刊)などの書物によって広く知られるところとなった。
また同じく一昔前は、それを読んでいることが「文学青年」のレゾンデートル(存在意義)とみなされた、フランスの批評家ロラン・バルトRoland Barthes, 1915年バイヨンヌ生まれ)の「零度のエクリチュール」(みすず書房刊)もまた、ソシュールの思考法にヒントを得ている。
今や懐かしい響きを持った“ポスト・モダン”“ニューアカ”(ニュー・アカデミズムの略称)といった言葉すら知らない世代が増えつつある時、こんな“ペダントリー”(衒学気取り)がなんの役に立つのかと思われる向きもあろう。重々承知している。確かにいまや「構造主義」で社会科学の謎がすべて解明できるなどと思っているノーテンキな人はいないだろう。
しかし一方で、ソシュールが提示した思考法が、その限界をわきまえれば、まだ一定の有効性を持っていることも忘れてはならない。とりわけ私がこれから展開しようとしている〈感覚〉と「言語」の相互浸透的関係を理解していただくには、言語学に対する一定の理解が有効な武器となる。そこで参考書を提示しておく。故丸山圭三郎氏による「ソシュールの思想」(岩波書店刊)である。ついでに、以前言及した心理学関係の入門書として相良守次著「心理学概論」(岩波書店刊)と、ポール・ギヨーム著「ゲシタルト心理学」(岩波書店刊)を推薦するが、なにしろ大昔に読んだ本なので今でも出ているか岩波のカタログを参照していただきたい。
さてここまでお付き合いいただいた読者も、「良い耳」が〈感覚〉的なものを基礎としているということはなんとかご理解いただけたかもしれないが、そのことと「言語学」とどう関係があるんだ、という疑問が巻き起こっていることだろう。当然である。私自身がつい先ほど、「耳を鍛えるのはコトバによる知識ではない」と明言したばかりである。
それらの疑問について、これから順序だてて説明する。
当初の疑問に戻って、まず〈感覚〉は万人共通か、という基本的な問題を考えてみよう。それには、とりあえず客観的と思われる物理現象を、世界の人々がどう捉えているのか観察してみるのが妥当だろう。
虹の色は世界共通である。それは太陽光線のスペクトルであるから。日本人はそれを紫、藍、青、緑、黄、橙、赤の七色とみなす。「七色の虹」である。しかるに英語では同じスペクトルを、purple, blue, green, yellow, orange, redの六色に区切る。またアフリカ、ローデシア(現ジンバブエマラウイ)の一言語であるショナ(Shona)語では、cipswuka, citema, cicena(発音の表記は正確ではない)の三色に区切る。アフリカ、ウバンギの一言語であるサンゴ(Sango)語ではvukoとbengwbwaの二色、リベリアの一言語であるバッサ(Bassa)語でもhuiとzizaの二色にしか区切らない。これらの事実は何を物語っているのだろうか。言語はまさに、それが話されている社会にのみ共通な、経験の固有な概念化・構造化であって、各言語は一つの世界像であり、それを通して連続の現実を非連続化するプリズムであり独自のゲシュタルトなのである。
さらに同一言語を用いてる人々ですら、はたしてどこまで同じプリズム、同じゲシュタルトを通じて現実を見ているのか、という問題も残るであろう。樹木一般しか知らずに何でも木と呼ぶ都会人は、柏、クマシデ、ブナ、ハンノキ、樺、栗、トネリコを区別して知っている農夫と同じゲシュタルトを通じて世界を見てはいないからである(以上、「ソシュールの思想」p118〜p119にかけての内容を補足要約しつつ引用)。
ここには非常に複雑な問題が潜んでいる。物理的現象である虹は客観世界に属し、同一の対象であるはずだ。それにもかかわらず人々はその色をかなり自由に分節し、コトバに表現している。まさに「コトバは認識のあとにくるのではなく、コトバがあってはじめて事象が認識される、もしくはコトバと認識は同一現象である」。(同書p119より)
太陽光線のスペクトル分節は光の波長の連続した変化であるのだからどこを区切るのも自由とはいえ、〈感覚〉器である眼の網膜には同じものが映っているはずなのに、七色と二色の極端な違いはどういうことなのか。構造主義言語学言うところの「コトバと認識は同一現象である」という命題を認めるとするならば、〈感覚〉自体が、日本人とアフリカに住むサンゴ語、バッサ語を話す人たちとは、別様に構造化されていると考えるしかないだろう。
網膜上には6色なり7色なりが投影されているが、それを頭で2色なり3色なりに「翻訳」していると考えることも出来ようが、実はその「翻訳作業」自体を〈感覚〉と呼ぶべきなのである。
ところでこのようにその対象(虹)に対する(文化的)関心の程度によって分節のレベルが(2から7まで)異なるということは、ジャズ・ファンの間では見慣れた光景ではなかろうか。単に古びたテナーという程度の認識しかない入門ファンにとっては、ベンもレスターも同じなのである。彼にとってジャズ・テナーは、スイングとモダン以降の2色にしか分節されていない。あるいは、普通のファンにとってはみな同じように聴こえる“パウエル派”のピアニストも、年季の入ったジャズ・マニアはきちんと、ウイントン・ケリー、トミー・フラナガンソニー・クラークバリー・ハリスハンプトン・ホーズ、クロード・ウイリアムソン、アル・ヘイグなどというように、六色にも七色にも聴き分けることが出来るのである。
明らかに〈感覚〉なるものは万人共通とは言えないようだ。