think05 -- ジャズを聴くことについての原理的考察 第5回

かつてデューク・エリントンは、「音楽には良い音楽と悪い音楽しかない」という意味のことを言った。出典を確認していないのでどういう状況での発言かわからないが、恐らくクラシック音楽など伝統のある音楽ジャンルに比べ、まだ新興音楽だったジャズへの偏見を正すために言ったのだろう。そうだとしたら、彼の発言の趣旨は圧倒的に正しい。
だが、エリントンの言わんとしたところを誤解し、クラシック、ジャズ、ロック、ポップス、各地の民族音楽など、さまざまな音楽ジャンルの存在自体を否定してしまうのはどんなものだろう。確かに今頃になって「マイルスの音楽はジャズかロックか」というような議論は退屈極まりないけれど、そうした見方が出てくることの意味はきちんと考えてみる必要がある。
音楽ジャンル否定論者は、本人たちは自覚していないかもしれないが、暗黙の前提として、〈感覚〉の普遍性を信じているのではないか。彼らには、万人があらゆる種類の音楽の良否を、各人の〈感覚〉に従って、正当に判断できるという無根拠な信念があるようおもえる。だから、クラシック音楽はエラくてジャズは低級だ、などという偏見を生みかねない「ジャンル」を否定すべきだというのだろう。
こういうことを言う人の気持ちはたいへんよく理解できる。音楽のようなものにまで、ジャンルという概念の背後に巣食う人種意識(白人のロックvs黒人のジャズ)やら、国家対立(ヨーロッパの「普遍性を持った」クラシックvs周縁地域の民族音楽)といった、争いごとのタネになりかねない発想を持ち込みたくないという優しい心情だ。
しかしそうした考え方は、本人の志に反して誤った結果を生みがちなのだ。彼らのものの考え方(普遍性への志向)は、本人たちはまったく自覚していないだけに厄介なのだが、かえって偏見の温床なのである。少なくともこれを読んだ方たちは、そうした誤った考え方に惑わされて迷路に迷い込まないように、彼ら普遍論者の基本認識の誤りを正していこう。
そのために少し長くなるが重要な資料なのでガマンしてお付き合いいただきたい。以下は「ロマーン・ヤーコブソン選集 2 言語と言語科学」(大修館書店刊)所存の論文「音楽学言語学」p99〜p100よりの引用である。

アフリカの或る原住民が或る旋律をその部族独特の竹笛で奏したとしよう。ヨーロッパの音楽家にとってはこのエキゾチックなメロディーを寸分たがわずまねることは至難に近いことであろう。それでも何とか音の高さは確かめるのに成功し、これで彼はアフリカの楽曲を正確に再現していると思い込む。ところが原住民は首をたてにふらない。というのはヨーロッパ人がその楽音の音色 die Klangfarbe der Tone に対して十分な注意を向けていなかったからである。次に原住民が同じ旋律を別の笛で吹いて見せたところ、ヨーロッパ人にはまるで別のメロディーのように思えた。なぜなら音の高さが取りかえた楽器の異なった造りに応じて完全に変わってしまっていたからである。ところが原住民の方は同一の旋律だと信じて疑わない。この違いは結局、アフリカ人にとっては同じ音色ということが肝心なことであるのに対して、ヨーロッパ人にとっては音の高さが問題となっていることに起因している。音楽において重要なのは、自然所与、即ち実現される楽音Toneそのものではなく、意図される(die gemeint werden)楽音なのである。原住民とヨーロッパ人とでは全く同じ楽音を耳にした場合でも全く別の物のつもりでいる。何故ならばその楽音をそれぞれの異なった音楽体系との関連において把えるからである。

やさしく解説すれば、ヨーロッパ人は同じ旋律ならアルト・サックスで演奏しようがテナー・サックスで演奏しようがどちらも同一の楽曲と認識するのに対し、アフリカ人はそれらを別のものと見る。この事実はヨーロッパ人とアフリカ人の間には、音楽の良否の判断以前に、音響現象のどの領域に「音楽としての意味」を見出しているのか、という根源的相違があることを示している。
こうしたズレは世界のあらゆる民族音楽相互に見られるもので、少しでもそうした事実を知っていれば、とうてい「ジャンルの壁は無い」などという希望的発言は出来ないだろう。
あるいはジャンルという言い方は適切でないかもしれないが、少なくとも異なった音楽体系に属する音楽の価値判断、などというを安易に言うべきでないことが次の発言を読めばご理解いただけるだろう。こちらは日本が誇る音楽学者、小泉文夫氏の対談集「小泉文夫著作選集(5) 音のなかの文化」(学習研究社刊)の「舞と踊り」からの引用である。
ちなみに私は、小泉さんの本を一冊も読んだことが無いなどという音楽評論家(もどき)の言うことは全く信用しないことにしている。対談相手は今をときめく狂言界のスター野村萬斎のお父さん野村万作氏と、亡くなった舞踊家吾妻徳穂さんで、冒頭の小泉氏の発言を引く。

小泉: 芸術に国境は無い、とよく言われます。が、たしかにその高みにあるものは文化の背景がそれぞれに違ってはいても、互いに理解し合うことができるでしょう。しかし、音の感じ方一つにしても、民族による違いがあって、ある民族にとっては意味のある音でも、他の民族には内容も理解できないし、なんの意味も持たない雑音でしかないことがあり得るわけですね。動作も同じで、私たち日本人の意思表示のしかたは、首を縦に振れば“イエス”、横に振ると“ノー”と、決まっているのですが、ブルガリアではこれがまるで逆になってしまいます。(以下略)

これはもう説明の要もないほど明確に「音楽の普遍性」という幻想を否定している。念のために付け加えれば、小泉氏は机上の空論でこうした結論に到達したわけではなく、ありとあらゆる民族音楽を実地調査して採取した結果、こうした事実を語っているのである。とりわけ興味深い指摘は、“イエス”or“ノー”といった、人間の根源的な身振りですら、普遍性がないという驚くべき事実だ。このことは「ナンバ」で言及したように、「歩き方」「走り方」というような、常識的には万人共通と思われるような所作ですら、文化体系の中で成立したものであることを裏付けている。
こうした現実がわれわれに教えてくれるのは、異種文化間の相互理解のためには、〈感覚〉自体が文化の産物であることを謙虚に理解し、決して自分たちの文化の価値体系(それは〈感覚〉の体系でもある)を相手に押し付けてはいけないということである。
たとえばアメリカ人にありがちな普遍性信者には「誰もが分かり合えるはず」という根深い思い込みがあって、それが相手方にとっては迷惑千万な誤解に過ぎないということがどうにもわからない。それが無意識の価値の押し付けを生む。それはかつての日本人のアジアに対する姿でもあった。そしてこうした光景は今ではあちこちで見られるはずだ。
話をジャズに絞り込めば、ジャズという音楽の価値体系を理解するキーは、ジャズの中にしかないという基本認識をぼくらはしっかりともつ必要がある。ジャズをクラシック音楽の手法で分析してみても、出てくるものはジャズが意図的に、あるいは無意識にクラシック音楽から借用した部分に過ぎない。つまり、あらかじめ埋め込んでおいた遺物を、あたかも新発見のようにして騒ぎ立てる捏造事件と同じなのである。そうした手法からは、決してジャズという複雑な過程を経て成立した混交音楽の全体像は描けない。
もちろん「クラシック音楽の手法」を「ロックの手法」と置き換えてみても、ことは同様である。マイルスは意図的にエイトビートやらエレクトリック楽器の使用などといったロックの手法を挿入した。だからその部分だけを見れば、ロック的に見えるのは当然なのである。しかし、そうした稚拙な分析が、マイルスの音楽の本質を理解したことにはなりえないのは、もうご理解いただけただろう。
最後に繰り返すが、仮にもジャズ評論を目指そうなどという奇特な方がおいでなら、小泉文夫ぐらいは必読と心得ていただきたい。実際この人の本は読み物としても大変面白く、責任を持ってご推薦できる。先ほどご紹介した対談集には、他にも坂本龍一氏ら旧YMOの面々や、小室等氏との対談も含まれており、誰にでも気軽に読める内容である。また、もう少し突っ込んだ理論的な書物として「音楽の根源にあるもの (平凡社ライブラリー)」(小泉文夫著、平凡社ライブラリー刊)も、ご一読をお奨めする。本屋で売ってないなどと泣き言を言ってはいけない。今やインターネット書店もある時代だし、お金がなければ日本には図書館という便利なものだってあるのである。