8月17日(金)

 山下邦彦さんから電話、5年越しの大著「坂本龍一論(仮題、というか、私が勝手にそう思っている)」が脱稿したので会いたいという。ついては村井康司さんにもお目にかかりたいというので、村井さんに連絡しつつ、夜、店に向かう。
 Y社長がいたので、株暴落など世俗の話題をするうち、偶然にも山下さんと村井さんたちが同時に来店。聞くと、偶然にも新宿駅で会ったという。これも奇遇か。
 さっそく山下さんの最新著作の話題になり、彼は貴重な資料を持参し坂本龍一の音楽について精密な議論を展開する。私は楽典には疎いのでフムフムと言いつつ、要するに山下さんの仕事は、坂本龍一であるとかキース・ジャレットジョー・ザヴィヌルといった優れた音楽的才能の持ち主の音楽を精密に、そして彼一流の「解釈」に基づいて分析することによって、彼らの音楽の感動の秘密を探ろうとしているのだと理解した。いってみれば帰納的作業である。そして恐らくは、そこから演繹的に素晴らしい音楽を創り出そうと考えているのではなかろうか。
 しばし聞き手に回るうち、シロートのヒジョーにソボクな疑問をジャズのプロである村井さん山下さんにしてみた。「調性の意味ってなんなの?」お二方は目を点にしつつ、まず村井さんが、「別に意味ってないですよ、しいて言えば、楽器の特性によって演奏しやすいキーを選ぶとか、ヴォーカルの場合は、歌い手さんの音域に合わせてキーを上げ下げするとか、、、」
 もちろんその通りなのだが、私の疑問は少年期、まったく才能ないのに(どっちかというと格闘技系なので)ピアノなど習っていた時の記憶で、同じメロディでも、例えばハ長調で弾いたときと、二長調で弾いたときとでは、音程が変わるということ以上に、音楽の響き自体が微妙に変化してしまうという、感覚的体験のフシギの理由を聞いてみたかったのだ。
 すると山下さんが「そんなハズありません、平均律はどの調性で演奏しても同じように聴こえるシステムなのですから」という。フーム、そうなのかもしれない、しかしそうすると、モーツアルトがあの素晴らしくも感動的な交響曲40番を、他の何調でもなくト短調を選んだのは、単に演奏する楽器の特性や、あるいは音域の問題に過ぎないということになってしまうけど、ホントーにそうなんでしょうか、とシロートはシツコク食い下がったけど、村井さんは「ボクは曲がCで演奏されていたってBでやってたって違いはわからないし、、、」とおっしゃる。
 もちろんボクだって絶対音感などないのだから、ブラインドでやられたらキーを言い当てることなんかできるわけはないけれど、続けて演奏してくれれば、それらが「単に」音程が違うだけでなく、音楽の持つ表情においても、微妙に異なっていることは感知できるのじゃないかと思うと、少年期のおぼつかない記憶を元に抗弁してみたが、山下さんの「平均律ならそんなことはアリマセン」のひとことでオシマイとなってしまったのだった。