「スピリチュアル・ジャズって何?」~柳楽光隆さんの好記事

 

 今ネットで話題の柳楽光隆さんの「スピリチュアル・ジャズって何?」という記事を読んだhttps://note.mu/elis_ragina/n/n17f9a89aeae0。非常に役に立った。カマシ・ワシントンの『The Epic』(Brainfeeder)が登場したとき、「スピリチュアル・ジャズ」に結び付けて解説した記事を読んだ記憶があるが、当時は「?」という印象が先に立った。

 

というのも、1967年以来ジャズ喫茶の現場で様々な新譜を見聞きした経験で言うと、この言葉が指しているらしい70年代以降のある種のムーヴメントに対し、当時「スピリチュアル・ジャズ」という呼称は一般化してはいなかったからだ。

 

しかし今回の柳楽さんの記事で、この呼び名が「後から付けられた名称」であると知り、なるほどと納得したのだった。こんな些細なことでも、それを明確に指摘している文章に出会ったのは初めてだった。つまり、カマシの『The Epic』を「スピリチュアル・ジャズ」の文脈で語っている方々の多くが、「ジャズ・ファン承知の」というニュアンスで記事を書いておられるが、私のような古顔ジャズファンにとっては、「え、それどういうこと?」としか受け取れなかったのだった。

 

もちろんコルトレーン以降、彼の影響下にあったファラオ・サンダース以下、アリス・コルトレーンアーチー・シェップなどの諸作は当然新譜で聴いており、また、ストラタ・イーストなども新譜で大半は知っていた。しかしそれらを総称して「スピリチュアル・ジャズ」と称することなど、私にとっては「常識」では無かったのだ。

 

とは言え、この名称がある時期以降、それなりのリアリティをもって使用されているらしいことは「カマシ紹介記事」の文脈で何となくではあるけれど理解は出来たが、肝心の「スピリチャル・ジャズ」の定義自体が、かつてのジャズ・スタイル・カテゴリー用語「ビ・バップ」であるとか「モード」のような明快さを欠いていた。

 

こうしたさまざま理由でカマシスピリチュアル・ジャズ・ラインの話は上の空的にスルーして行ったのだったが、かといって『The Epic』を聴いたとき、そのルーツがまったく見えなかったわけではない。私なりのジャズ史的理解で彼の音楽は「ジャズ史の正統」に位置付けられている。その中身については、昨年話題となったカマシの新作『Heaven and Earth』(Young Turks)のライナーで言及したので、ご一読願えれば幸いだ。ちなみに柳楽さんも私と共にこのアルバムの素敵なライナーを書いておられる。

 

余談ながら、『Heaven and Earth』の「Earth 編」冒頭の印象的な名曲「Fists of Fury」は、現在私が監修している小学館の隔週刊CD付きムック『JAZZ 絶対名曲』Vol.14「新元号のジャズ」に収録が決まっている。

 

話を「スピリチュアル・ジャズって何?」に戻すと、この記事の有用性は当然「スピリチュアル・ジャズの名称が後付けのもの」といった指摘に留まらない。先ほど疑念を呈したこの用語の定義らしきもの、というのも、用語使用者自身「後付け」の事実も知らないぐらいなので、当然かなりあいまいなままだったようなのだ。しかしそれでは話が始まらない。

 

この問題点を今回の柳楽記事は指摘したうえで、かつてのさまざまな「使用例」というか該当しそうなアルバムを基に、考えられる限りの「定義項」を列挙し、具体的に解説、実例をていねいに挙げている。これが実に役にたったのだ。これを読んで、あいまいなままだった「スピリチュアル・ジャズ」の内容がかなり鮮明になったと同時に、カマシ周辺の音楽にこの名称を使用する妥当性も納得できるようになった。

 

この記事で指摘されている、この用語が「ジャズファンほど知らない」理由も興味深い。それはまずもってジャズの本場とされるアメリカではほとんどこの用語が見当たらないこと、そしてUKのクラブ・シーン、DJ経由で日本に移入されたという経緯だ。

 

こうした事実を知ると、「それじゃあジャズ史的にあてにならない名称じゃないか」と思われる方もおいでかと思うが、それは違う。そもそも「歴史」というものは事実関係こそ確定させるべきだが、「解釈」は当然時代によって変わってくる。というか「変わるべき」なのだ。

 

「歴史的事実」は一つでも、それらの「事実」を恣意的になることなくていねいに紡ぎ合わせ、「ジャズ史的意味」というか、より広い展望をもった「有効なストーリー」を描き出すのが優れた評論の仕事だが、今回の柳楽さんの記事はまさにそのまっとうな「評論活動」と言えよう。「ジャズ史」は常に「読み直される」べきなのだ。